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江戸っ子の秘めた蕎麦への願い

暑いと言うから暑くなる、と言う人がたまにいます。でも、言わなくても暑いものは暑いですよね。暑気に当たらないよう、お互い気をつけましょう。

さて、……。

江戸っ子は、基本的に好ましい存在として認識されている。口は悪いし喧嘩っ早いけど、腹の中に一物もなく、宵越しの金は持たない気っ風の良さもある。

そういう彼らであるが、死の間際に願っていたことがある。それは「ドップリつゆにつけた蕎麦が食いたい」というもの。

江戸っ子の蕎麦の食べ方には作法のようなものがあって、ドップリつゆにつけるのは野暮の極みとされた。箸で手繰った蕎麦の先を、つゆにチョンとつけてそのまま口に入れ、噛まずに喉越しを楽しむ。これがイキだとされた。喉を通る蕎麦の香りを鼻腔で感じることに価値を置かれていたらしい。

一度試しにこの食べ方をやったことがある。確かにつゆにドップリつけて口の中で咀嚼するよりも蕎麦の香りが強く感じられるのは分かった。でも、それが本当にうまいのかについては断言できない。

断言できるのは噛まずに飲み込むのであれば、消化に悪いということ。これは間違いない。

ただ、この食べ方をイキだと推奨するのには、もしかしたら別の意味があったのかも? と思うようになった。

実際に江戸前の蕎麦を食べたことがある方はお分かりになると思うのだけど、つゆの味が濃い。かなりしょっぱいと言ってよい。

そういうところにドップリと蕎麦をつけるとすれば、全体がかなりしょっぱくなってしまう。そうなると、蕎麦の香りを楽しむどころではなくなる。

加えて、当然のことながら塩分の取りすぎとなってしまう。それは明らかに健康に悪い。だから、上述のような作法が生活の知恵として生まれたのではないか? 私はそう考えてしまう。

もちろん、蕎麦つゆの味が濃くなったのが先か、蕎麦をつゆにちょっとしかつけないのが先かについての解明がないと、この説も根拠が成り立たなくなることは理解している。

ただ、正直言って一口ぐらいならやっても許されるのではないかという気もする。それくらいなら健康上も誤差の範囲だからだ。但し、やはり野暮天扱いされることにはなっただろうと思う。

ここで「それならそれで結構だ」と啖呵を切る江戸っ子がいなかっただろうか? それを知りたい気がする。

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