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欲しがりましょう、負けてでも

今日は上司がお休みなので、過去の資料を確認する余裕もありました。そういう日もあって良いと思います。

さて、……

今回のタイトルは「はあ、このオジさん何言ってるの?」と思われるものかも知れないとの認識はある。なお、もちろん元ネタは戦時中の「欲しがりません、勝つまでは」のスローガンである。

この戦時中のスローガン、よくよく考えると決定的におかしいところに気付く。日本が戦争に勝つことと、個人が欲求を持つことにどのような関係が成り立つのかを、全く説明していないのだ。

先の大戦において国民一人一人が耐乏生活を強いられたことは、私が敢えて申し上げるまでもない。多くの国民が、欲しいものを我慢したはずである。

しかるに、日本は戦争に負けた。つまり、勝つまで欲しがらなかった国民は最後まで報われなかったことになる。

言い換えると、このスローガンは個人が欲求を抑え込んだとしても、国家が勝てるとは限らないという「当たり前」の反例を示すものであった、とも考えられる。

国民の欲求を何とか封じ込め、不満の高まりを抑えたいという当時の大本営の思いも、分からなくはない。だけど、それは全く相関関係のないものを勢いで関連づけてみただけではないのか。少なくとも私はそう思っている。

兵の欲求に対する米軍の対応を見れば、日米に大いに差があった。米軍は、占領地に必ず兵の慰安施設を作った。そうすることで、兵達の緊張を解き、その精神を安定させ、厭戦気分の高まりを抑えてきたのである。

我慢できる性質そのものは、決して悪いとは思わない。但し、そうかと言って我慢すれば必ず自分の願いが成就するのかを考えれば、それは違う。

個人が必要と感じているが国家を慮って要求しないなどというのは、今日び全く意味の無い行動である。ぶっちゃけ馬鹿げている。要求されたことで国が負けるのであれば、それは国の責任である。間違っても個人が責任を負うべきものではない。

このような「あたり前」のことを敢えて言うのは、日本人が敗戦から75年以上が経ってもなお、自分さえ我慢すればという思考に陥りがちだからである。それはむしろ、問題の先送りに過ぎないのではないかと私は考える。

全体のために個を犠牲にする。それを美点とする社会の風潮は、さすがにもう終わりにすべきである。そもそも個人の欲求など「高が知れている」はずのもの。それすら満たせない国が勝利を目指すなどおこがましいと言わざるを得ない。

自分を悪者にする思考からの脱却こそが、これからの日本の未来に繋がると確信している。

お読み頂き、ありがとうございました。

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