見出し画像

修辞を絞った短文を心掛ける

私の過去記事を読まれている方は、お気づきだと思う。私の記事の一文は、普通の方のものよりも短めであることに。

現状、会社の文書においてA4サイズの紙に3行程度で一文という例は、珍しくない。でもそれは、望ましくないと思っている。

3行ということは大体90~120字で、その多くは複文である。「Aが○○であるとともに、Bが△△であることを考慮すれば、Cが××する可能性を下げるように以下の対策を講じることが必要」といった形である。

長文は、読み手の脳に負荷を掛けて疲れさせてしまう欠点がある。読み手は無意識のうちに主語・述語・目的語を探してしまうのだから、当然である。

これが連続すると、読む意欲を失わせることにも繋がりかねない。

情報があふれている今の時代、読むストレスが少ないに越したことはない。時間は有限なのだから、一度読んだだけでスッと頭に入るものがいい。これが読み手のニーズであろう。

ところが、書き手はついつい美文を書きたがる。美文は修飾語が増えるので長文になりがち。でも書き手は、その長文を書ける能力を文才だと誤解する。更に縷々論考できることが、自分の能力を示すと信じて疑わない。

この読み手と書き手のギャップに気付かない書き手も多いのではないか? 今、世間の注目を集める某「アメリカへの留学生」などは、その最たるものであろう。

誰もが知っている「蛍の光」は一文で、文字数も少ない。

蛍の光 窓の雪 ふみ読む月日 重ねつつ いつしか年も すぎの戸を 開けてぞ今朝は 別れ行く

掛詞、隠喩、係り結び等を用いた格調高い文章である。私に書けるものではない。その技巧には素直に頭が下がる。でも、この内容をしっかり理解できる人でなければ、この価値がわからない。

身も蓋もないが、大抵の読者は、技巧的な文章を求めてはいない。これは即ち、多くの人にとっては無駄をそぎ落とした率直な文章の方が読みやすく、刺さるということでもある。

大抵の場合、読み手は書き手のピンの能力を期待してはいない。少なくとも私はそのように考えており、できる限り一文は短く、かつ修飾を凝らさずに書くよう心掛けている。

読んで頂いただけでも十分嬉しいです。サポートまで頂けたなら、それを資料入手等に充て、更に精進致します。今後ともよろしくお願い申し上げます。