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ベタな「生まれてきた」理由探しを少し試みる

帰り道も寒かったです。帰路で思い浮かぶ励みは、ただただ家に帰ること。家に帰りたくない方には申し訳ないとも思います。

さて、……。

自分は「なぜ」或いは「何のために」生まれてきたのか。この問いは紀元前から存在する大命題。そして、未だに決定的な答えが出ていない。

この問いに対し、過去幾多の人が挑んできた積み重ねを冷静に受け止めるなら、この問いに対する明快な答えはないと考える方が素直。更に言えば、今後も多分答えが出ないままだと考えるのが相当だろう。

以上で終了! も十分あり得るのだけど、もう少しアプローチしてみたい。

今生きている自身の立場からではなく、「逆側」からこの状態を考えるとどうなるか。

昔から「棺を覆いて事定まる」と言う。人の評価はその人が死ぬまでわからないということである。これは他者への評価についての言葉であるが、自分自身も他者から見れば評価される対象。即ち、自分自身も死ぬ瞬間まで評価が定まらない存在だということでもある。

実は「なぜ」「何のために」を考え、何らかの結論を出した上で自身の生き方を選んだとする。ではその生き方が本当に正しいのかを、誰が判断するのだろうか。これは意外とハッキリしない。

「自分でしょ!」というのは分かるのだけど、では本人が決めた生き方に本人が生きがいを感じていればよいのか、という更なる問いが生じる。

極端な話、人は皆が善良な性質を持ってはいない。人を苦しめても蓄財に励み小金を眺めることに無上の喜びを感じる人も、残念ながらいる。

そういう事実を踏まえ、なお「自分で決めた」生き方、即ち「自分は蓄財のために生まれてきたんだ」を是とできるか。

やはりそれは違うと私は感じてしまう。悪いことをしてはならず、目的達成において人のことを考えないやり方は受け入れられない。

もっとも、自分が「なぜ」「何のために」を考える人が我欲のために生きる選択をする可能性はほぼないだろう。ただ、ゼロとまでは言い切れない。

「神様から見て正しいか」を考えればよいというご意見もあろう。この神の存在を肯定する場合、考えなければならないのは、人間も神がつくったものであるという事実。

この事実を踏まえれば、その製造物責任も当然神にあることになる。そうであれば、人間が悪事をした時に神に責任はないのか、まで突き詰めて考えねばならない。

ここで神学論争を始めると収拾がつかなくなる。よってそこはスルーすると、少なくとも「一般通常人の価値判断において是認できる範囲」において、各人が考えて決めた生き方を貫くために生まれたというのを、取り敢えずの結論としてよいのではないか。

暫定で申し訳ないが、そう外したものでもないと思う。

お読み頂き、ありがとうございました。

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