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恋と差別について、それとこれとは「どう」違うのかを考えてみた

やっと今週の業務が終わりました。この喜びがどれくらい持続するのだろうか、と思っています。

さて、……

差別はいけないと言う人であっても、年頃になって恋をしたことはあると思う。その行為をどのように評価すれば良いのだろうか。たまに考えてしまう。

何と言っても、人「一般」はこの世には実在しない。また、複数人に真剣に恋をする人は少ないだろう。普通に個人を好きになる行為は、それ以外の人を差別していることにはならないのだろうか。

恋は特別のもの。だから、それとこれとは別だとの意見もあるとは思う。でも、ただ別だ、というだけでは皆の理解は得がたい。きちんと理屈づけなければならない。何がどう違うのかを明確にする必要がある。

これを真剣に考えると、考えるほどに論拠が乏しいことに気付く。「魂が求める人だから」と言い張っても、それは他の人と扱いが違うよね、という批判にはあらがえない。

人に恋することを悪いと言っているのではない。この点は強調しておく。ただ、それは明らかにその人を他の人より優先して取り上げる行為である。これが差別ではないという理由が、私には見つけられない。

私の結論としては、これはご指摘の通り差別であることを認める。そして、人間は、そのような行為をしてしまう罪深い存在であると語り、それでもこの罪深い行為により次世代の生命が紡がれていく必要悪な性質である、とやや強引に結ぶしかないかなと考えている。

恐らく、このような論法以外、恋の差別性を正当化することは難しいのではないか。是非このあたりについては、コメントを頂きたいと思っている。

人を好きになることに、明確な理由なんてない。イケメン・美女というのは確かに理由の一つにはなるけれど、背格好、スタイル、知性、趣味、関心・興味、態度、仕草、価値感、表情、果ては声というのまである。

ただ、これらであっても「私をなぜ選ばなかったのですか?」と真顔で聞かれると、返答に窮する場合もあるだろう。

ツガイになる生き物は数多いけれど、彼らも競争を勝ち抜いて相手に選ばれたことを思えば、差別性を100%否定することは難しい。

真っ白な自分ではないことを認めなければならない。人の差別を指摘する際には、それを踏まえる必要があると思う。つまり「オマエモナー」なのである。

お読み頂き、ありがとうございました。

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