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介護離職よりも外注化に向け努力し、勤務を継続すべき

こう言うと申し訳ないのですが、雨も降る降る詐欺状態。結局今日は雨に見舞われずに済みそうです。

さて、……

介護の問題。我が家はたまたま母を受け入れてくれる施設があったから良かったものの、もし見つからなかったらどうなっていたのか、と考えることがある。これ、決して珍しい話ではないと思う。

こんなことを考えたのは、ちょっと知っている人が介護離職したと人づてに聞いたからだ。地方の場合、介護施設も選択の幅は広くないし、地方であればこそ空くまで待たされることもある。

訪問介護でその間をしのぐという方法はあるけれど、介護認定の度合いにもよるが、毎日フルタイムというのは難しい。結局誰かが看なければならないことになりがち。

それで介護離職という選択になるのだけど、介護離職する人で若い世代は少ない。親との年齢差もあり、ある程度ベテランの域に入った人が多くなる。そういう会社での経験知が失われることは、少なからぬ損失に繋がってしまう。

太平洋戦争において、日本の航空戦力が末期に向かうに従って弱体化した要因の1つに、熟練パイロットの減少が上げられる。飛行機は作れても熟練した飛行技術を持つパイロットは、軽々に養成できない。これと同じである。

だから、介護を老人福祉の問題としてのみ取りあげるのは、正しくない。知識や技能の承継といった企業戦略にも関わるほか、介護離職を考える者の人生そのものにも深刻な影響を与えてしまう問題である。

介護をしようとする心がけは尊いのだけど、それは少なくとも経済的には全体最適とならない。身も蓋もないことを言うが、親はほぼ間違いなく自分より先に亡くなる。その後にも自らの人生は続く。

また、親への愛情という言葉については、若干疑いを持っている。愛情というよりも愛着の方が正しい気がする。つまり「慣れ親しんだものに対する離れたくないという気持ち」である。

本来、子は親元を離れて独り立ちした時点で、親との関係は薄くなる。仮に親と同居していても、子どもの頃のような関わり方を普通はしない。親の安否は気になるものの、それは今の自分の生活であまり多くを占めない。

このような場合が多いと思う。考えて見れば、親の力は我々が生まれた時がピークであり、自分が成長する一方で親は老いてくる。ある時点で力関係は逆転する場合が多い。

そういう中で親の介護に携わるからには、やはり愛着の方が適切であろう。

そういう視点に立つと、親の介護に全力を傾注することは得策ではない。外注に出せるならばできるだけそうして自らの生活基盤を親の介護で変更しない方が良いと考える。

そうせずに済む環境を官民一体となって築くこと。これがとても大事なことだと思う。

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