介護する動物っている?
今日はクリスマス。これまではクリスマス・イブに注目が集まってきたように思いますが、今年は曜日の関係で今日ケーキを食べるという方も多いと思います。ちなみに、わが家もそうです。
さて、……
大抵の動物は、子がある程度育つと子を巣から追い出しに掛かる。群れで暮らす一部の動物はそうではない場合もあるが。
大抵の動物は縄張りを持ち、そこで取れる動植物で命を繋いでいる。その中で生命を維持できる個体数は当然限定されてしまうことから、この追い出し行動は合理的とも言える。
追い出された子は、当然親の突然の変わり身に戸惑いながらも、やがて覚悟を決めて親の縄張りから出ていく。そして辛いながらも、自分の身を立てられるように孤軍奮闘を始めることとなる。
ここで、彼らには親のために縄張りに残るという発想が全くないことに気付かなければならない。つまり、動物の世界に「介護」という概念はないのである。
言い換えれば、子を縄張りから追い出す親は、自分の老後を子に面倒を見てもらおう等とは微塵も考えてはいないということでもある。
この点に着目すると、人間はかなり特異な存在であることに気付く。即ち、自然に範を取るのであれば、介護は自然に反する。介護する生き物は、恐らく人間だけなのだ。
実は、人間だけが行う行動について、受け取り方は二つあると思っている。
これらは、いずれも理屈として成り立ち得る。結局、どちらを取るべきかは個人の価値判断に委ねられる。
このようなことを考えてしまうのは、自分が親の介護をしている立場だからだろう。常に介護についての落としどころをどのあたりに置くべきかが、私の頭の片隅にある。
よく「自分の親を施設に預けるなんて」と、批判的な意見を目にすることがある。でも、それはいくら何でも子に責任を負わせ過ぎだと考える。それで子が自らの人生をよく生きられないのであれば、本末転倒である。
上述の二つの考え方が成り立つことを前提に、その間で自分が納得できるところを探らなければならない。これは、介護に携わる多くの同年配の方にも共通するテーマである。
無責任な他者の言葉に引き摺られることなく、かと言って後で自分が後悔しない妥協点や、できることとそれをやることによって失われるものの得失を考えることは、自分らしく生きるためにも不可欠だと思っている。
お読み頂き、ありがとうございました。
読んで頂いただけでも十分嬉しいです。サポートまで頂けたなら、それを資料入手等に充て、更に精進致します。今後ともよろしくお願い申し上げます。