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前例踏襲はそれほど悪くない

今日は風が強く午後からは雲もかなり出てきて、雨が降り出すかな、と思ったくらいでした。幸い降らずに洗濯物も乾いて良かったと思います。

さて、……

昨日は、起こったことを記録として残すのに命を懸けた史官達の存在について書いた。

これについて、少し別の面から補足したい。

彼らは、ただ起こったことを記録していただけではない。起こったできごとへの対応も記載している。それを書くには、逆に歴史において積み上がった過去のできごとも、史書を読んで知っていなければならない。

当然彼らは、前例について詳しくなる。そのため、史官は過去に起こったできごと、先例について照会を受ける立場でもあった。

人間の営みそのものは、昔からそれほど大きくは変わらない。過去のできごととその対応を今起こったことに対応する際の参考にすることは、妥当な結論を導くのにも役立つ。

そのようなことから、王朝の重要な会議の場に呼ばれることも珍しくはなかったし、外交で前回の饗応の様子や滅多にやらない儀式の詳細といった有職故実に詳しい者として重宝された。

昨今、前例踏襲というと「何も考えていない」「事なかれ主義」といった批判的な見方をされることの方が多い。しかし、それは違うと私は思っている。

というのは、過去の人達がその時点で真剣に考えた結果が前例である。だから、個人の思いつきよりも妥当な場合が多いはずだと思っている。

少なくとも会社業務の遂行にあたって、前例を調べていなければ検討に入れない。踏襲するかはまさに改めて決めるべきではあるが、しないならしない理屈が必須となる。

もちろん、世の中は少しずつだが着実に進んでいる。従って、前例が時代に合わない場合も当然出てくる。しかし、現代においても前回と同等の対応が必要だと考えるなら、やはり前例は踏まえる必要がある。

どんなものにもメリット・デメリットはあり、前例踏襲でデメリットの方が多くなると思われるならば、その時は改めればよい。但し改めた内容が新たな前例となることを踏まえ、更にしっかりした内容にする必要はある。

なお、技術的な面では前例踏襲で課題をクリアできない場合が多くなりがち。それはゼロベースで新しい発想を探す対応が求められる。但し、成功にたどり着ける確率は高くない。進むか現状維持か、難しい選択を迫られることになる。

以下は余談。史官達はその職責から、時に悲劇に見舞われることがあった。前回書いた内容もそうなのだけど、有名なものでは史記を著した司馬遷の「李陵の禍」がある。

これは漢文の授業で習った人もいると思う。簡単に内容を書く。

前漢の武帝が匈奴と交戦、寡兵で戦っていた李陵が匈奴に降伏した。武帝は激怒して厳罰を望み、居並ぶ廷臣がそれを忖度して黙っていたところ、史官であった司馬遷が彼を過去の名将と比較して弁護、逆鱗に触れた。

司馬遷は獄に繋がれ、その後李陵が匈奴の軍事教練を担っているとの誤報により、李陵の一族は処刑、司馬遷は宦官にされてしまったのである。

司馬遷はそれに発憤して史記を著すことにもつながったが、歴史に照らした発言であっても、常に受け入れられるとは限らない。伝え方はやはり考えるべきで、その教訓も後世に残してくれた史官達に改めて感謝する次第。

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