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常識と宗教、神と「神」

今日は暑さが戻ってきました。風もあまり吹かず、昼前にギブアップしてエアコンのお世話になってしまうことに。

さて、……

身も蓋もなく言ってしまうと、そもそも宗教は常識を逸脱している。「神の子が死後復活する」「地球の歴史よりも長い時間を経て菩薩が救いに来る」等々を考えれば、お分かり頂けるものと思う。

「この世のものは全て神が作った」という教えと抵触するため、遺伝や進化についても受け入れない人達がいる。信仰する対象が異なる他教徒同士であれば、尚更相互理解できているかの意識は必須。

我々は常識という言葉を安易に使うが、全ての人と共通認識・共通理解できているものかをしっかり検証する必要がある。腹落ちしていない人がいるようであれば、話しても通じない事態が起こり得る。

だから宗教はダメなんだ、という話をするつもりはない。ただ、少なくとも科学的に証明された事実を優先し、それに基づいて話すのは必須。そして宗教に基づく各種のストーリーを、それを信じない人に無闇に主張すべきではない点はわきまえねばならない。

世の中に理不尽なことは山のように起こっている。それらのことについて憂い、悩み、何とかして欲しいと思うことも多々ある。しかし、実際にそれが何とかなることは少ない。ぶっちゃけ、大抵は泣き寝入りである。

神仏は、そういう時に脳内ですごくよく働いてくれる。働いてくれると言うのが恐れ多いのであれば、救いを与えてくださると表現すればよいだろうか。

「お天道様は見ている」。このような考え方は、各宗教に共通している。そして神は、あらゆる人間の行動の全てを把握し、それができることを示すためにも全知全能である。そして善人に救いを、悪人に罰を与える存在として認知される。

神が本当に存在するのかは私には分からないし語れない。でも、いて欲しいという気持ちは率直にある。宗教の基礎は、個々の人のそういう気持ちが寄り集まったものではなかろうか。

納得できない不条理を、何とか納得できる形にして説明してくれる存在であり、神はそうあって欲しい人間の想像の産物という一面はあると考える。

一方で、本当に存在するのかと言われて誰も解を示せない。人間の五感で感じさせられないからだ。でも、世界中で存在を肯定する人がたくさんいるのは事実。

ただ、それぞれの信じている宗教によって称される神の名前も異なる。また、その神の性質も異なる。これらを踏まえると、神が本当にいたとしても、それは人間の認知している「神」とは別の存在ということに行き着く。

宗教対立は、「神」を信じる人達同士の争い。争いの根源は人間の認知の差に基づくものだと考えると、何とも言えない寂しさを感じてしまう。カギ括弧のつかない神はそれを望んではいないはずだからだ。

「神」止まりの信仰は、一定の歯止めを超えたのめり込みを生み、円満な家庭生活を破壊する話が昔から後を絶たない。それなのに今でもなお悲劇は繰り返されている。大いに残念なことである。

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