数年前の家族写真を見て思うこと
今日、午前中意外と早くから雨が降ってきて往生しました。ちょうど病院の予約の入っている時間でしたので。
幸い、降りが弱まってパラパラになったタイミングで自転車に乗って出ることができて助かりました。
さて、……
まだ亡父が存命中の頃、父母の元に姉夫婦、私夫婦とその子どもが集まって会食したことがあった。その際にせっかく集まったのだから、と撮った写真がある。
父母を中心にそれぞれの家族が写っている。結果として、家族繁栄を地でゆく写真になった。この写真を撮った頃は、父は残る命が数年も残っていない気配など全く感じさせておらず、また母も認知症になるとは想像もできなかった。
父母の一組の夫婦から子が二人生まれ、その二人の子がそれぞれ結婚し伴侶を得て更に子が生まれる。古い家族観に従えば、幸せの典型のような写真ではある。もっとも、昨今ではこれが必ずしもそうとばかりは言えなくなっている。
今までは何とかなったけれど、これから先は結婚することすら贅沢、或いは結婚できるのは上級国民といった見方をされる可能性が無視できない程度にはあるように思う。
そういう時代の過渡期にこのような写真を撮れたのは、もしかしたら希有の僥倖であったのかも知れない。
なお、まだ未就学の子も含めて全員がカメラ目線でかつ誰一人目を閉じていないという状態であることを踏まえると、これはまさに奇跡の一枚となった。
その後、父が亡くなる8ヶ月前に私の家族と父母だけで撮影した写真はあるが、残念ながらそちらの方は娘の目線が微妙にズレている。
写真というのは、まさにその瞬間を切り取るものであることを、改めて認識させられた次第。
今はスマホ時代となり、写真もその日その時の気分で撮ることが多くなっている。それはそれで悪くない。でも、決めの一枚を撮らねばならない時には、写る側も心して撮影に意識を向けることが必要だと感じる。
奇跡の一枚と呼ばれる写真がある。これは、狙って撮るものではあるが、狙っただけで撮れるものではない。いくつかの偶然とタイミングが重なった、まさに写真の神様が降臨しないと成立しないものである。
冒頭に記載した家族写真に神様が降りたのかは謎。解明のしようもない。それでも、きれいに撮れた写真が手元にあることは、素直に喜んでいる。
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