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実家のモノの有り様から、自宅のモノの持ち方を考える

人は、あの世にモノを持っていけない。人間は裸一貫で生まれ、死んでいくからだ。

少なくとも、生きていた時に持っていたモノは、そのままこの世に物理的に残る。このことは疑いようがない。亡父の相続手続を進める上で、雑多としか言いようがない様々なモノと格闘した経験からも、それを実感する。

今は人が住まなくなったとはいえ、まだ実家がある。だから、直ちに整理・処分をしなくても済んでいる。しかしながら、この状態がいつまでも続かず、いずれ完全な空き家にする時が来ることも重々承知している。

もっとも私も、これまで無為に時間を過ごしてきたわけではない。折々に少しずつこれは不要というモノは処分してきた。自分が実家に残置していたモノは、所有者が私であり自分の判断のみで廃棄した。

でも、母のモノや父の思い出の品については、まだそのままである。父の学生時代の写真等は、もう持っていても仕方がないと思うものの、捨てる決断をしきれない。結局、追い詰められるまで放置になってしまう。

このような経験をしたことで、わが家でのモノの持ち方も考え方を改めるようになった。

元々、今の家に引っ越す前にある程度モノを取捨選択しているので、今の家にはまだそれ程多くのモノがある訳ではない。とはいえ、家にいると少しずつ確実にモノが増えてしまう。

ただ親を見ていると、加齢につれて「チョイ置き→そのまま放置→忘れる→そのまま山となる」傾向が顕著になっており、自分はそれを他山の石として対応しておく方が無難だと考えている。

「もしかして後で使うかも」は悪魔のささやきであり、実際そうなることはマレ。かつ、そのマレの時にそのモノの行方が記憶に残っておらず、探す労力の方が大きいことを肝に銘じて、迷ったら捨てる方向に舵を切った。

また、本も電子書籍があるものはそちらを選ぶ、プリンタ複合機のスキャナー機能を利用して原本を捨てられるモノは捨てる、等の対応もしている。

これも、子やまだ見ぬ孫への愛情だと思う。

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