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生きる意味を考えても結論は出なかったはず

寒いに近い涼しい一日でした。おかげで、庭木の手入れで汗をかかずに済みました。

さて、……

「人は何のために生きるのか」「生きることの意味は何か」。あなたもこれまでの人生で、一度はこのようなことを考えただろう。高校~大学くらいの間で、友達と一度はそういう議論をしたことがあると思っている。

私もその1人である。しかし、結局のところこの問いについての正解はない。そして各々の結論は「仮にそうだったとして、あなたはどう生きていくのか」という更問への答えにはそれ程影響を与えない。

例えば、「社会に役立つためだ」「社会に功(いさおし)を残すことに意味がある」という答え。若者が答えがちなものである。悪くない。では、それに対する「あなたはどう生きていくのか」という更問を考えてみる。

ここでペラペラと「公益性の高い仕事について、社会に役立ちたい」「〇〇技術を研究し、更に深化させて世の中の発展の一翼を担いたい」と答えたとする。すると、そう言う程に本質から離れるような印象を受けるのだ。

ここからは世慣れたオジさんの詭弁かも知れない。でも、およそ世の中の仕事で社会に役立たないものはマレだと思っている。必要とされているからこそ仕事として成り立っていることを踏まえれば、これは当然の帰結である。

だから、一般的に公益性が高いとされる仕事ではなくても社会の役には立つし、技術革新に携わらなくても各々の居場所でやり方を工夫等すれば、世の中に尽くし発展に寄与・貢献することはできるはず。

結局、生きる意味についての考察や議論は、自らを鼓舞する根拠か自己肯定感を高める答えを求めているだけというのが私の現状認識。これは、間違っているだろうか。

生きる意味を考えたことを悪いと言うつもりはない。自分もそのようなことを考えたことはあるし。むしろこのような思索の時を経るのも、人の成長過程における通過儀礼だと整理すべきではないかと思っているだけである。

そもそも、この問いは過去の人も発してきたと思う。ただ、未だに正答が確立されていないのも事実。ぶっちゃけ、正答はないと見做しても良いのではないだろうか。

加えて「人はかく生きるべき、そう生きない者には生きる意味がない」等という価値感の押しつけは傲慢に過ぎるし、時に危険ですらある。

むしろ生きていること自体に意味がある、それ以上でもそれ以下でもないと考えた方が人に優しくなれる気がする。

月曜日の出社時に、よく人身事故が起こる。それに怒りをぶつける思考の片隅に「自分の生き方に反している」との思いが混ざっていないかは、自戒すべきだと思う。

お読み頂き、ありがとうございました。

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