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大きいところ、高いところを目指す必要はさらさらないはず

今朝は少し冷え込みました。昼間に外に出ていないのですが、多分温かかったんじゃないかと思います。いい季節になりますね。

さて、……

昨今のネット意見を眺めていてガッカリするのは、人としての大きさを微塵も感じさせないものが増えたこと。重箱の隅とは言わないけれど、そんな細かいことを本当に気にしているの? と問いたくなる。

もちろんザルではマズいのだけど、さりとてあまりザルの目が細かいと、すぐ目詰まりしてしまう。人間の能力には限界があるのだし、多少のところは流しても良いのではないかと思っている。

私はそういうさじ加減ができる人に人間の大きさを感じる。それはなぜかと考えると、そういう人は本質を理解してそこから自分のスタンスを組み立てられるからだということに尽きる。だからこそ、本質ではない点についてはかなり自信を持って放置できる。

昔は「清濁併せ呑む」のが人としての器量であり、人間の大きさを表すかのように言われた。しかし、今はコンプライアンス遵守の徹底が叫ばれる時代、「濁」を受け入れるのは論外、交わるのも不可となった。

もちろん、これを悪いと言うつもりはない。「頭にヤの付く自由業」の方や、総会屋さんの跋扈する時代は終わるべきだと考えるからだ。

一方で、長い不況の影響か、勝ち組・負け組意識が広く世の中を覆うようになったと感じている。そして、誰だって負け組には属したくない気持ちを持つため、政権側に寄った意見、ネットオピニオンに迎合した意見が目立つ。

そして、社会的な弱者をたたく意見も残念ながら出てくる。障害がある、或いは病気で働けない人に対して、高いところから人としての価値を値踏みするかのような辛辣なことを言う。それって人として美しくないし、そもそも言わなければならないことなのだろうか。

人間としての大きさを感じられないのは、持って生まれた特性によるものが大きい。だから、これはしょうがないとも思う。しかし、敢えて高みに昇ろうとするのは違う。それは明らかに意図して上から目線でモノを言おうということ。そうしなければならない理由はない。

自分を大きく見せたい、高いところにいて上位者として振る舞いたいという気持ちはわからなくもないけれど、それで心の底から満足できるのだろうか。

私はそういうことに意味を感じないし、率直にくだらないと思っている。

大物は敢えて自分を大きく見せなくても周りの人がその大きさを認めるし、大きさがあるが故に結果として高さもそれなりに持つために、人に対して大きな影響力がある。そういうことだと思っている。

本来なら、皆が普通の人として他者と対等に接すれば良いと思う。大きくなる必要も高い位置に昇る必要もない。自然体で十分だと考えるのだけど、あなたはどうお考えだろうか。

お読み頂き、ありがとうございました。

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