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ゴミを拾う日本人、障害者には厳しいのもどうかと思う

今日は日差しが強かったですね。シミができそう……って既にできていますがw。

さて、……。

昨日、世界で賞賛される日本人のゴミ拾いについて、その背景には誰が何をするのかについて厳密さに欠けている日本の職場環境があることを指摘した。

ここで、更に「日本では何でもみんなでやるんだ!」メンタリティがあることも指摘しておきたい。

業務区分が曖昧で、その組織に所属しているのであれば業務分担を超えて仕事の助勢を指示されることも珍しくない。それもやむなしだと思う人が日本では多数派だと感じているが、違うだろうか?

一方でそれによる会社への貢献は、大抵は特筆するほど大きくもないために評価に結びつきにくい。つまり、ありがとうの一言で終わり。これも日本的な対応である。

この対応は、経営者と普通の社員の待遇差にも反映される。報酬はもちろんその他もろもろで大きな差があるのだけど、海外のように何十倍になったりはしていない。これも、日本的だと思う点である。

これを止揚すると「何でもみんなでやる⇒大差を付けずある程度平等に扱う」になるのだけど、これが悪い面で障害者に対する態度に表れる。

我々の祖先は、障害を持って生まれた我が子を「葦船(あしぶね)に入れて流し去(う)てき」という神様を古事記の中で描いている。だからというわけではないのだろうけれど、障害者に対しては厳しい。

この記事には、ユニバーサルデザインで乗れるはずのタクシーに乗車拒否される、障害者の視点で機器が設計されておらず操作できない、ホテルの廊下とユニットバスの間の段差が壁になる、等のことがこの記事に記載されているが、まだまだだと思わされることが多い。

そして、昨日以下の記事をみかけた。

寒々とした日本の心象が見えて鬱になる。そして、平等と公平の違いも意識していない人が多いことを改めて認識した。

平等は不特定多数の人間を同じように取り扱うこと、公平は個人の特性を踏まえて条件が同じになることだと私は捉えている。学校で平等は教えるけど公平は教えない。これも、障害者・弱者に対する闇からのバッシングにつながっていると考える。

自分が日々の生活で辛いからと言って、その負の気持ちを弱者に向けるのは美しくない。エエカッコシイであっても、やせ我慢であっても、弱者に心を向けるべき。サムライジャパンを応援してゴミを拾うのに留まらず、「武士は食わねど高楊枝」を実践して欲しい。

柳原可奈子さんがお子さんの脳性まひをInstagramで公表した。

柳原さんのお子さんが大人になった時、胸を張って迎えられる世の中であることを切に願うものである。

お読み頂き、ありがとうございました。

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