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「いじめ」という表現は、もうやめよう

今日は思ったよりも温かくなりませんでした。明日から天気が悪いらしいですね。週の初めからちょっと残念です。

さて、……

この記事は、読むだに心の平安が失われる。加害者がそこそこ分別があるべき年代であること以前に、人が人に嫌がることをここまでやって良いのか、と問いたくなる。

「性的な行為の要求」や「繰り返しおごらせる」行為を、ひとくくりに「いじめ」という抽象的な表現でくくるのはもうやめるべきだと心の底から思う。抽象化すると事実が見えにくく重みも伝わりにくくなるからだ。

なぜ曖昧な表現でその場をやり過ごそうとするのかが、全く分からない。そうすることでどのようなメリットがあるのか。一言で言えば、教員も含めた当事者が本来負うべき責任を免れるに過ぎない。

事実の究明がなおざりにされ、再発防止策も立案されず、人々の記憶から消えるにつれて、また別のところで同じことが発生する。その連鎖を断たねばならないと強く強く思うのだ。

「性的な行為の要求」や「繰り返しおごらせる」行為は、強制わいせつ、強要、恐喝のいずれかに該当するものであり、そうであれば刑法に触れる犯罪である。なぜ、犯罪をそのまま見過ごそうとするのだろう。

学校の教員は犯罪捜査のプロではないことは理解する。そうであれば、そのプロである警察にさっさと渡すべきである。自分でできないことをできるかのように振る舞って何もしないのは、最悪な対応ではなかろうか?

マスコミの側も、いい加減に立ち位置を変えるべきだと考える。なぜ遠巻きにいじめだという会見を垂れ流すだけなのだろうか。犯罪であることを問い質した記者がいたのかを知りたいところである。

もし犯罪でないという認識ならば、普通のインタビューと同様にやった側にインタビューをして欲しい。顔や名前を晒せとは言わないけれど、やった側の動機や今の思いを語って欲しいとは思う。

自分も同年輩の娘を育てており、遺族の無念は察するにあまりある。そして我が身に置き換えてもしその立場であれば、警察に相談するだろうとは思う。

ただ、犯罪として立件するのには、いつ・どこで・誰が・何を・どうしたを明らかにしなければならない。ハードルがかなり高いのである。

これをしも忍ぶべくんば、いずれをか忍ぶべからざらんや

「論語」八佾第三

この手のことをうやむやにして、結果として社会として容認するようなことがあってはならない。「ならぬものはならぬ」のである。

お読み頂き、ありがとうございました。

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