見出し画像

人間性への挑戦はしなくてよい

曇り空からでもその向こうの日の光の強さを感じた一日でした。梅雨が明けたらどうなることやら……。

さて、……

昨今、本当に世の中が世知辛くなっている。人が平和に明るく暮らすことってそんなに難しいのだろうか。

というか、日々報道されているウクライナでの戦闘は世知辛いなんて言葉では足りない。

よく分からない理由を付けて他国に攻め入り平和に暮らしている人達を追い立てて家を破壊し命を奪う。あれだけ破壊し尽くした土地を手に入れられたとして、そんなに嬉しいのかが全く分からない。

それをひどいと非難する人も、通勤電車で人身事故に遭遇すれば、出社時間に間に合わないと舌打ちをする。人身事故が起これば、まず人命が失われているというのに。

海外では銃を乱射する人もいれば、国内では入管で生命の危機に瀕しているのに放置して死に至らしめる人もいる。

人間はいつからむごさを競うようになったのだろう。

昔、ヒトと人間は違うと言われたことがある。ヒトという言葉には、生物学的な分類としての側面がある。ヒト科の生き物として見られたときに、人格は問われない。

しかし、人間というと単なる生物的なヒトであるだけでは足りない。テレビドラマでたまに「お前ら、人間じゃねえ!」というセリフが登場するけれど、この言葉は、ヒト科の生き物であることの否定を意味しない。

ただ他者への愛や礼節を蔑ろにし、他者を尊重・社会と協調する姿勢において最低限身に付けているべきレベルに至っておらず、なおかつその価値を低く見る人間に対して、全否定的な評価を下す言葉である。

逆に、「人間じゃねえ!」と言われている人は、大抵の場合人間がどこまで悪くなれるのかという人間性に挑戦していることになる。でも、そのような挑戦に何の意味があるのだろうか。

結局、一時の欲得によって、自らの行動を抑制できないだけである。あの世には何も持っていけないことを考えると、もう少し諦観を身に付け足るを知る必要があると思う。

何も、ごく一部の人間にしか到達できない崇高な人間性を身に付けて欲しいと言っているのではない。社会で一緒に生きていくうえで相手に尊厳があることを意識し、自分がやられてイヤなことを他人にしない。それだけできれば上等である。

でも、それが難しいらしい。残念だけど。

お読み頂き、ありがとうございました。

読んで頂いただけでも十分嬉しいです。サポートまで頂けたなら、それを資料入手等に充て、更に精進致します。今後ともよろしくお願い申し上げます。