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悲劇の記憶へ住まう旅

旅職住近接住宅

後期後半のスタジオは能作淳平さんのスタジオの「旅職住近接住宅」という課題をとった。これは、コロナ禍において旅行を自粛せざるを得ない状況で、仕事をすること、住むことと、旅行することを等価に扱うことで、新しい暮らし方を考える課題であった。

僕は毎回、自分の興味や関心を課題に当てはめて進めるので(たまに課題の趣旨とずれてしまうこともあるけど)今回は、旅=ダークツーリズムと解釈して課題を進めた。

キーワードは"悲劇の記憶へ住まう旅"

水俣への旅

映画「MINAMATA」を見てから水俣を訪れたい気持もあったので、敷地を水俣にして設計を進めた。

誰が何のために何を建てるのか、どんなプログラムが必要なのかしばらく悩んだ末、実際に1週間弱、水俣へ旅をすることにした。 

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夕暮れに熊本から水俣へ向かうローカル電車は、海沿いを走り窓から見える風景はとても美しかった。

水俣に着くと、美しい風景、昔からある木造住宅、地方によくある大型チェーン店が大通り沿いに並ぶ中、1つだけ街の真ん中に大きな工場があった。工場は大きな柵と堀で囲まれ、入り口にはテロ警戒中の文字。街の中で明らかに異質で異様な存在だった。これは旧チッソ工場で、水俣病の原因を引き起こした工場であった。現在も会社の名前は変わっていたものの稼働していた。かつて、チッソは水俣の敷地の4割近くの敷地を持っていたらしい。

その日は市街に泊まった。

柵と工場
工場出入口
工場敷地を囲う堀


2日目は水俣病資料館や水俣湾の埋立地、慰霊碑なども見て回った。


埋立地
慰霊碑

宿は、水俣の中でも水俣湾や市街地、工場とは少し離れた湯の児というところの旅館に泊まった。老夫婦が営んでいる昔ながらの旅館で落ち着いた雰囲気の旅館であった。目の前は海で、砂浜もありとても美しい景色で、水俣のこと、ダークツーリズムのことをじっくり考えるのにはとても最適だった。

湯の児
砂浜
旅行

たまたま、水俣病資料館など1人で見に来ていたおばあちゃんと旅館の前のバス停でお話できたりもした。

3日目は海沿い歩いてぼーとしたり、砂浜に座ってぼーとしたり、山を登って上から見渡したりゆっくりと過ごした。

4日目はたまたま隣の市でやっていた、ユージン・スミスの写真展も見れた。


この数日は、水俣のこと、ダークツーリズムのこと、そこでの建築や建築家ができること、たくさん考えた。物事の良し悪しよりも、悩んで考えた、その時間に価値があったと思う。ダークツーリズムの醍醐味である。


水俣病

水俣病とは、先程のチッソ水俣工場から海に流していた工場排水に混じったメチル水銀が原因であった。メチル水銀を体内に取り入れたプランクトンを魚が食べ、その魚を人間が食べるという風に食物連鎖的によって人間がメチル水銀を取り入れたことによって発症してしまう。それは、漁業を生業にしている人たちとその家族に多かった。

感染や遺伝性はないが、当時はそれが分からなかったため奇病として差別に苦しんでいた。

今現在でも、当時子供や胎児だった人が後遺症で苦しんでいる。


水俣の関係図

旧チッソ工場は水俣の経済の要で、住民の多くの人が働いていたため、簡単に工場の停止をできなかった。そのため、被害は広がり、チッソ側vs漁師側の対立が起てしまった。その対立は今でも無くなっていないように思う。

公害として国に認定されてからは、裁判で賠償金が払われたりした。しかし、どこまでの症状を水俣病患者とするかの議論も続き今でも問題は残る。


悲劇の記憶へ住まう旅

水俣を訪れ、色々考えた。
建築が、建築家ができることは何か。
そもそも第三者が介入して、何かをすることはただのお節介なのではないか。何もできないのではないか。

この問いは、答えは出ないのだと思う。
ずっと悩む気がする。でも考えることは重要だと思う。

結果、課題としてつくったものは、ダークツーリスト(写真家、映画監督、メディア関係者、大学関係者など)を対象にした短期〜長期のための宿泊施設と、そのアーカイブを残す道の駅を設計した。

水俣において、広島のように多くの人が訪れるようテーマパーク化するのはなんか違うなと思った。でも知ってもらうことも必要だと思った。だから、後世に引き継ぐ意志のある人たちが、その活動をしやすくするための建築を考えた。建築で何かをできなくても、手助けすることはできるかもしれない。僕が水俣でそうしたように、水俣を訪れた、ダークツーリストたちな資料館や跡地を周り、少し離れた場所でゆっくり考え、何かを制作し、美しい景色の中を散歩し、人と話せる、そんな建築を考えた。


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