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言語思考と視覚思考の限界について

GW初日、創作に行き詰った私はyoutubeを徘徊していると、とても興味深い動画を見つけることができました。その動画を視聴して考えた事についてここへ残します。

視聴した動画というのは、ゆる言語学ラジオという方々が4月27日現在から2週間前に投稿されていた、言語思考者である二人が視覚思考者(ビジュアルシンカー)について語る動画です。

言語思考者は、情報を整理し理解するために言葉を主に使い、論理的で順序立てた方法で考える人々で、視覚思考者は、図形や画像を用いて情報を処理し、ビジュアルに豊かな方法で全体的なパターンや関連性を把握する人々のことです。

まず、私は視覚思考者です。二次元的な映像や三次元的で複雑な図形、または色彩豊かで抽象的な存在に意味を見出し思考を創っています。
典型的な言語思考者が語る視覚思考者について考えや偏見、エピソード等を聞いて、私としても面白い考えがたくさん浮かんだので語っていきたいと思います。
(ただの殴り書きなので話が飛びまくると思いますが、お許し下さい。)

1 言語思考と視覚思考の限界

お二人の話で印象に残ったのは、「芸術作品はすべてキャプションでいい」とおっしゃっていたことです。

私のような視覚思考者は絵や彫刻を見れば作成者の意図や作品に込められた想いが感じられますが、残念ながら言語思考者はそうではないようです。

逆に、言語思考者が書いた詩やエッセイを私が読んでも内容はおおむね理解できますが、情報が損失してしまう事、読み手によって本来の情報が変化してしまう事に対して勿体ないと感じてしまうのです。

ここで考えたのは、思考タイプによって、それぞれ思考できる物事には限界があるのではないか、ということです。

1-2 言語思考の限界

ではまず、視覚思考者が感じた言語思考の限界について話していきます。

言語思考者は、言葉によって構築される思考のフレームワーク内で情報を処理し、概念を形成し、理解していくのだと考えます。そのせいで、言語が持つ固有の制約により表現や思考が限定されることがあるのではないかと予想しました。

例えば、色の認識です。日本語では「虹」は七つ色があるように見えますが、これは日本語の色彩に対する認識が基となっているからです。一方、他の文化や言語では色彩に対する言葉の数が異なり、それによって認識できる色の数も変わってきます。

視覚思考者の私なら、言葉があろうがなかろうが、思考に影響されることはありませんし、虹も7色というのはあまり納得がいきません。

そして抽象的な概念や多層的な意味を既存の言葉や文法で捉えきれないことで、概念の多面性や深さを完全には表現できていないことが多いように思えます。例えば、哲学的な議論や精神的な経験は言葉では表現し切れない複雑さを持っています。このような場合、言語思考者は物事の表面的な理解にとどまりがちで、その本質や深い意味を完全に把握することができていないとしか思えない文章を書いています。

これらのことから、言語思考者は高度な言語の言語能力を高められなければ複雑な思考ができないのではないかと予想しています。環境が整っていれば問題はありませんが、もし環境が整っていなければコミュニケーションはおろか、初等教育すら満足に理解できないという事例も確かめられました。

少し脱線しますが、ラジオでも話されていた「幼少期には視覚思考であったが、成長につれ言語思考になっていった」ということについて思ったことがあります。幼少期、言葉を何も知らない私たちは皆平等に視覚思考者だったのだろうと予想します。しかし、言語を学んでいく中で言語と視覚どちらが思考しやすいかを無意識で判断し、思考方法の固定化が進んでいくのでしょう。しかし、言語を理解できないにも関わらず言語思考をしている人は意外にも多く確認できます。これについては、遺伝の可能性も捨てきれません。いつか統計を取って考えてみたいですね。

脱線しましたが、言語思考の限界は、言語固有の特性と文化的背景によって大きく影響されます。つまり、視覚思考者よりも想像できる世界が狭いのです。


1-2 視覚思考の限界

言語思考について言い過ぎた感じもあるので、視覚思考の限界についてお話していきます。

視覚思考は、言語思考と比較して具体的なイメージや図形の情報を直感的に処理する能力に強いですが、抽象概念や理論的な内容の処理には向いていません。

例えば、数学の分野で「無限」という概念は、視覚的に正確な形を持たないため、直感的に理解しにくいです。
無限という概念を視覚化しようとした場合、エッシャーのようなアーティストが描く無限に続く階段などのイメージが浮かびはしますが、それはあくまで無限の「象徴」であり、実際の無限の本質を捉えるには至りません。

私はよく概念を思考するとき、メタファーを用いていますが、そのメタファーが適切でない場合、理解している気になっているだけの道化になってしまいます。

例えば、経済学では「流動性の罠」という概念のメタファーです。

流動性のワナ(Liquidity Trap)とは、金融緩和により金利が一定水準以下に低下した場合、投機的動機による貨幣需要が無限大となり、通常の金融政策が効力を失うことを指します。
一般に景気後退時の対策として金融緩和を行うと金利が低下することで民間投資や消費が増加すると思われますが、一定水準以下になると銀行などに資金が大量に滞留し、貸し出しとして企業や個人など民間に流れ込まず、設備投資や個人消費などが増えません。このような状況に陥った場合、従来の金融政策は効かなくなり、量的緩和やマイナス金利、大規模な財政政策などが発動されることもあります。

この概念を理解しようとした際、私はハムスターの車輪を思いつきました。どれだけ努力(金融緩和)をしても意味がないという事が直感的に理解できるからです。
しかしこの単純化されてしまったメタファーは大きな問題があります。
まず、経済的な文脈や、低い利率がなぜ需要に影響を与えず、なぜ通常の金融政策が効果を発揮しないのかという重要な部分が軽視されています。
さらに、このメタファーは実際の経済状況とは異なり、ハムスターが車輪を回す動機付け(経済政策の工夫や変更)が考慮されていません。
このような複雑な概念の全貌を正確に捉えるには単純な視覚情報では足りず、一連の流れのストーリーを映像化したり、複数の視覚情報をツリー化までしなければ理解できないのです。
概念をわざわざ視覚情報に変換しなければならないことで、情報を正確に認識することが難しい、という限界が視覚思考者にはあると考えています。
この限界は現実社会でも問題に大きく関わっており、遺伝子組み換え食品や農薬等を毛嫌いする人はこの視覚思考の限界によって生まれていると予想します。私も知識がなかったら、遺伝子組み換えや薬という言葉から感じる嫌悪のイメージだけで危ない事と考えていたかもしれません。

2 感想

適当に考えを書き連ねた感想ですが、どちらも一長一短であり、優劣はないということですかね。
この動画を見る前は、言語思考者に対してわざわざ非効率的な言語を使って思考をするレベルが低いなぁなどと考えていましたが、それは恐らく言語化が上手い人への嫉妬と、創作全般における優越感から来るライバル意識みたいなものだったのでしょう。そして、今回くだらない優劣について考えたことで、視覚での思考も本質的に言語での思考と何ら変わりないと実感しました。

この手の話題は主観でしか話せないことで先入観もりもりになってしまいますが、ゆる言語学ラジオのお二人は俯瞰的に物事を見れているのが理解でき、ぜひとも見習っていきたいなと感じました。まだ動画未視聴の方は、とても面白いのでぜひ見てみてください。

いつか言語思考と視覚思考のいいところを取り入れた思考法を発明してみたいですね。それでは、またいつか。(私は何に言いたくて、これを書いたんだっけ?書いてる途中で分からなくなっちゃったや)

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