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浮月楼@静岡 久保田隆さん(昭52観)

静岡駅北口ロータリー前の一角を歩いていると、突如日本家屋風の重厚な門構えが現れる。
ここは、長年静岡の方々に親しまれている料亭・浮月楼。江戸幕府第十五代将軍徳川慶喜が20年以上も暮らした屋敷跡地でもある。この浮月楼を20年以上にわたり代表取締役社長として守り続けてきた久保田隆(ゆたか)さんは立教の卒業生だ。

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​駅前に突如現れる浮月楼の門構え

音楽漬けの学生生活

高校から立教へ通った久保田さん。同じく立教出身で6歳上の兄・学さん(昭46営)の影響を強く受けており、高校で音楽部に入ったのも「耳がいいからトランペットをやったらどうか」と学さんが進めてきたのがきっかけだ。高校の寮では、学さんからもらったクリフォード・ブラウンというトランペット奏者のカセットテープを何度も何度も聞いていたという。
結果的にトランペットではなく、幼少期に習っていたピアノをやることになり、2年生でギタリストの秋山一将さんやフルート奏者の谷則安さん(ロサンゼルス立教会会長)らとバンドを組んだ。音楽部の1学年下には、あの佐野元春さん(ミュージシャン、昭54社)がいる。

音楽に染まった高校生活を送った後、大学では社会学部観光学科(当時)を選択する。「まだ『観光学』というものが世の中に浸透していなくて、『観光学って何?』という感じ。家の商売のこともあったけれど観光学に新しさを感じた」と選択の理由を話す。
そんな久保田さんは、大学では高校時代以上にさらに音楽漬けの日々を過ごした。大学に行くと5号館のピアノがある教室でずっとピアノを弾き、夜はバーでピアニストの仕事をする、そんな毎日だった。

「ピアニストの仕事で結構稼げてね。当時の新卒の月収よりも遥かにいい収入を得ていたよ」と話す久保田さんは、大学卒業後もそのままバンドのピアニストの道を選択した。在学中と同様にバーでピアノを弾く生活を続けていたところ、歌手のしばたはつみさんのバックバンドに入らないかという誘いを受けた。これは音楽をやる者にとって、とても大きなステップアップ。喜んで誘いを受けたが、ここで自身のピアニストとしての実力不足を痛感することとなる。
「バックバンドでは、譜面を見てすぐに弾けないといけない。僕は耳で聞いて弾いていたから、譜面を読む力が足りなかったんだ」
これが契機となり、久保田さんは生業としての音楽の道を離れることになった。

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今もご自身で経営されているジャズクラブLIFETIME(静岡市)でピアノを演奏している。出演日は毎週木曜日と金曜日。

サービスの基礎を学んだホテルでの経験

これから何をしようかと考えていた時、お兄さんが「静岡に帰ってくるつもりがあるなら、まずは外で修業してこい」とプリンスホテルでの働き口を紹介してくれた。時はちょうど成田空港ができる頃。成田空港近くに新しく建てるホテルの開業に携わることになったのだ。しかし当時、成田空港周辺は開港反対派による激しい運動が行われていた。
「管制塔占拠事件も開業前のホテルから見ていた。あれ、何か煙があがっているね、と」
 これらを受けて成田空港の開港は延期に。ホテルの開業もあわせて遅れることになり、4、5カ月静岡に戻り待機することになった。
 そんな混乱を乗り越えながらも、成田プリンスホテルで2年ほど働きベルボーイ、ハウスキーパー、フロント、クラークなどの業務を経験。その後、新高輪プリンスホテルに異動し、宴会や物品の調達などの業務を担当した。プリンスホテルでサービス業の基礎を一通り学んだ久保田さんが、静岡に戻ることを決意したのは1983年。28歳の時だった。

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笑顔で当時の思い出を振り返る久保田さん

人生最悪の1年

静岡に戻った久保田さんは、叔母である女将のもと、学さんとともに働いた。1998年に女将が亡くなり、学さんが跡を継ぐ。これからは学さんを助けて頑張っていこうと思っていた矢先、思ってもいなかった辛い出来事が起きる。6歳上の学さんが49歳という若さで病気で亡くなってしまったのだ。立て続けに2人の身内を亡くした悲しさのうえに仕事にも追われ、この頃のことを「人生最悪の1年だった」と久保田さんは振り返る。

長引くコロナの影響

悲しく辛い時期を乗り越え、浮月楼を守り続けてきた久保田さんは今のコロナ禍をどう感じているのだろうか。
「今まで色々なことがあったけれど、このコロナの影響が1番大変だった。例えば、コロナ前は大規模な結婚式を年間250件くらい行っていた。それが、2020年度は100件程度に減り、さらには出席者も20人くらいという小規模なものばかり。マスコミ報道でも『会食』という言葉が多く使われてしまったので、私たちのように宴会をメインにしている業態のお店は、未だコロナ前の日常に戻る気配はない」と厳しい現状を話す。
 また、静岡駅のすぐ近くという土地柄もあるようで、
「静岡市内はビジネス利用の方が多い。2020年のGo Toトラベル事業では、同じ県内でも伊豆方面の観光地はそれなりの効果があったようだが、ビジネス利用者向けのホテルが多い静岡市内は効果が薄かった」と話す。とはいえ、何もせずにただ静観しているわけではない。地元、「静岡まつり」の実行委員長もつとめる久保田さんは、徐々に対面でのお祭りを再開するなど、何とかして地元を盛り上げようと奮闘している。

徳川慶喜公からの歴史を守る

 浮月楼といえば、徳川慶喜公。2021年の大河ドラマ「青天を衝け」(NHK)では草彅剛さんが演じ話題となっている。さらには、渋沢栄一が日本初の株式会社「商法会所」を設立した場所でもある。
「正直なところ、コロナの影響で期待していたほどの大河ドラマ効果はなかった。ただ、ドラマを通じて、慶喜公のイメージがよくなったのは嬉しいこと」と話す。
 かつては地元の人でも「新政府に負けて逃げてきた」と慶喜公にネガティブなイメージをもっている人もいたそうだ。しかしドラマでそういったイメージが徐々に払拭され、慶喜公の人間味も浸透し、ポジティブな声が増えてきているという。
そんな久保田さんからみて、慶喜公は「リアリストで、いい意味で普通の人。ただ、時代が彼に追いついていなかった」と語る。
静岡に転居したあとの慶喜公は、自転車に乗ったり、絵を描いたり、写真を撮ったりしながら隠居生活を送った。そして、新しいことを始める際は、専門的な知識をもった人に教えを請うた。例えその人が自分より身分が低かったとしても、だ。身分の上下にかかわらず、実力がある人のことを認める慶喜公。身分によって厳しく区別されていた当時としては、非常に先進的な考え方を持っていたということだ。だからこそ認められた一人が、大河ドラマの渋沢栄一だったのだろう。浮月楼には、慶喜公が撮影した写真や彼が使っていた自転車などの展示品が飾られている。ぜひ皆さんも、静岡にお越しの際は当時の趣を残す庭園を眺めながら、慶喜公の過ごしていた時代に思いを馳せてみてはいかがだろうか。

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当時の趣を残す浮月楼の庭園。駅前のため高いビルに囲まれていて、昔と今とが融合されている

新たな時代に向けて

20年間守り続けてきた社長の職を、2021年4月に甥の久保田耕平さん(平14観)に引き継いだ。兄・学さんの息子である。
「コロナ禍で大変な時期。何をしても大変だからこそ、何をしても失敗はない。だからこそ、新社長には新しいことにどんどん挑戦してほしい」
長い歴史を紡ぐ浮月楼。今まさに、新たな一歩を踏み出したところだ。