さみしい朝

ここ最近仕事が忙しくて休みも本来連休のはずが細切れで、精神的にも身体的にも疲れていたけどそれがひと段落して心が緩むとその細胞の隙間にさみしさが入り込んできた。

さみしさと言うやつはそれを感じない時も、体内のどこかでひっそりと待機していて、いざ主の心が緩むのに気づくとすぐさまその間を満たすように奇襲をかける。

だから、本当はさみしくない時なんてないのかもしれない。さみしさに気づいて、誤魔化して、忘れて、また思い出しての循環の中にいるだけなのかもしれない。

そのさみしさを誤魔化すために昨日の夜は眠りについたはずなのに、今日は目が覚めた瞬間さみしさに襲われてしまった。

大抵は朝起きたら、鬱屈した夜の記憶の全てが馬鹿馬鹿しくなって、爆発したような寝癖を乗せて呆然としているものだけど、なぜか。

目覚ましよりも早い時間に、悪夢から逃げるように飛び起き、思わず携帯の画面の光を浴びてしまった。

おかげでもう正午を回っているけど依然として頭は冴えないままだ。

何をしたらこのさみしさが満たされるのかはよくわからない。

たとえば、友達。
ふだんからあまり外交的でない私は、気の合う友達にたまに会えたらそれで一時的に満たされる。けど、仲の良い友達とそれぞれ親密な関係を結んでいるという事実だけではおそらく私は満たされない。なんて贅沢なのか。

たとえば、家族。
私は今家族と一緒に暮らしているけれど、決定的に理解してもらえない瞬間も感じるし、酷いけれど反論できない言葉が家族から発せられる時は、早くこんな家抜け出してしまいたいと感じる。
家族はさみしさを満たせない。残念ながらほとんど。

たとえば、趣味。
小説の世界に入り込んでいる時はさみしさを感じなくて済む。
ただ、ずっとフィクションの世界に入り浸りになるのはかなり体力を要するので、いつかはそこから離れてしまう。それに、そのフィクションから得られた感情を誰かに共有したいと思ってしまう。それをぶつける相手が自分しかいない時は、やっぱりさみしいのだ。

じゃあ、たとえば、恋人。
恋人がいれば万事解決なのかもしれない。
しかし恋人ひとりに万事を求めるのはあまりにも危険で不健全だ。
それに恋人がいてもさみしくなってしまうことを私は知っている。また別の種類のさみしさが生まれるのだ。


私はきっと、その場を離れていても常にそこと繋がっていると信じられるもの、自分が自分でいてよいと確信できるもの、が欲しいのだろう。
それが別に友情とか恋愛とか性愛といったカテゴリではなくても、自分に愛のあるまなざしが向けられていればそれでよいのだと思う。
なんだか、かなり、宗教みたいだ。

(“繋がり”。つい最近読み終えて、それを読むのに夢中になってさみしさを忘れていた、朝井リョウ『正欲』に通底しているキーワード。ぜひ色んな人に読んでほしい。そして言葉を失ってほしい。)

それが見つかれば今の私はもうこれ以上ないくらいの幸福の域に達する。
今も十分すぎるくらい恵まれてて幸せなのに足ることを知らない愚かな心だ。

陽が昇っている時に書く文じゃないな。
相変わらず自分が気持ち悪くてお腹いっぱいになってきたので、このへんで。

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