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四十九日の手紙


2021年5月5日 水曜日 14時 

  3月18日から49日が過ぎ、四十九日法要の日が来ました。今日のこの日まではお兄ちゃんは私達の傍にいたんだね。7回の裁判はさぞ大変だったでしょう。嫌でなければ、生まれ変わる時もまた私のお兄ちゃんとして生まれてきてね。今度は、自然が豊かで、近くに広い湖があって、ヤギやヒツジなんかをたくさん飼うどこか遠い国の兄妹として生まれましょう。もし嫌だったら、お兄ちゃんの好きな場所で、私達の知らないうちにこっそりと生まれ変わってね。 

  この49日間は、私の人生の中でも特別で、不思議な時間でした。私が私でいられなくなるような怖さがありました。少しずつこれからの人生の歩き方をいくつか試しているけど、上手くいくこともあれば、上手くいかないこともあります。家族は元気です。心が元気じゃないときはもちろんあるけれど、昔では考えられないくらいみんな仲良くしています。お兄ちゃんは、本当はもっとずっと前からこうしたかったんだよね。家族みんなで旅行に行ったりしたかったんだよね。どうしてお兄ちゃんが生きているうちにそれが叶わなかったんだろうね。ごめんね。お兄ちゃんがバラバラだった私達家族を繋げてくれた。ありがとう。 

  お兄ちゃんが旅立ってから、私は家族や友達とたくさんの美しい景色を見ました。桜や、川や、海や、街の光や、新緑を見ました。この世にはこんなに美しいものがたくさんあるのに、どうしてお兄ちゃんはいなくなってしまったんだろうとその度に思いました。美味しいものを食べるときもそう思いました。お兄ちゃんは自ら望んで旅立ったとわかっているけれど、やっぱりすべてを納得することは出来ないよ。後悔しています。 

  昨日久々に、永遠の眠りについたお兄ちゃんの姿の写真を見ました。苦しんで苦しんで、ふと息が途切れた、そんな表情でした。やっぱり、少しずつ一緒に歳を重ねて、大往生だったねと言いながら、しわしわになった姿を見送るべきだったのに。そうしてあげられなくてごめんね。あまりにも早く決断させてしまったね。 ときどき、お兄ちゃんは自ら命を絶つとき、少しでも私のことを考えたのかな、どうなんだろうと考えます。傲慢でごめんなさい。頭の片隅に過ったでしょうか。どちらでも良いけど、できれば、お兄ちゃんの人生の最後の1日、どこかで少し妹のことを思い出していたならいいな。 

  数日前、家にお兄ちゃんが帰ってくる夢を見ました。玄関からただいまという声がして、革靴を脱ぐような音がしました。でもお兄ちゃんは姿を見せてはくれませんでした。寂しいね。でも声が聞けただけでも嬉しかったです。 

  さっき私たちの小さい頃の写真も見ました。私達は思ったよりずっと、一緒にいたんだね。お兄ちゃんがいなくなってから私は、自分の腕や足がどこか1本消えてしまったような感覚がします。こんなに一緒にいたんだから当たり前だよね。お兄ちゃんはもう25歳のままなのも、不思議な気がします。5年後に私は26歳になって、お兄ちゃんよりも長く生きる訳です。その感触が訪れるのが何となく不安です。 

  それでも、お兄ちゃん、私たち家族のところに生まれてきてくれてありがとう。25年間の命の輝きをありがとう。お母さんは、お兄ちゃんは本当は人間のふりをした天使で、神様からの借り物だったんだというようなことを言っていました。私もそう思うよ。 

  この手紙のように正直な私な気持ちを、もっとお兄ちゃんに話せばよかったのにと思います。そしたらもっと分かり合えたのかもしれない。後悔してるよ。後悔ばかりでごめん。それでもまた、手紙を書くね。もう話すことが出来ないから。お兄ちゃんの名前で通知が光ることも、電話がかかってくることももうないと分かっているから、私から語りかけるよ。それじゃあまた、近いうちに。それまで安らかで。 

 律

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