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箱根駅伝を目指した軌跡 ~高校まで編~

プロローグ

皆さんこんにちは。
ということで前回宣伝した通り、箱根駅伝を目指した軌跡を綴っていきたいと思います。
内容自体がかなり長編となっているので、何編かに釘って紹介していきたいと思います。

それと前回投稿した、今まで携わって下さった全ての方々へという記事が物凄く反響をいただき、本当に色んな方に行き届いて感謝しかありません。
ちなみに前回の記事は今年投稿した記事の中で最も拝読されている記事になりました。
三日で1800ぐらいの閲覧数を記録し私自身も驚いています。

👆🏻まだ読んでいない方はこちらからどうぞ

今回も前回に負けじと良い記事を完成させられるように努めていきたいと思います。
では本題へ。

箱根駅伝を目指したきっかけ

私が箱根駅伝という舞台に憧れを持ち始めたのは中学三年生の頃。
中学生は野球部に所属していて、野球も楽しかったのですが、なんせ体格センスがある程度備わっていないと上の世界では戦えないスポーツ。
体格にあまり恵まれていなかった当時の私は、野球というスポーツに限界を感じていました。

ただ、野球をしている中でもランニングメニューは得意でした。
他人がゼーハー言っている中でも私はまだまだ走れる余裕があり、周りから持久力面で評価されるようになりました。
それが長距離走に興味を持ち始めたきっかけで、走ることは日に日に自分自身が成長を感じ取ることができて、体格差も関係なく勝負できることに魅力を感じました。

そんな魅力を感じその年の箱根駅伝をテレビの前で釘付けになりながら見入っている自分がいました。
20km以上の距離を爽快に駆け抜ける選手はとても輝いていて気付いたら自分自身も走ってみたいなと感じ、この瞬間箱根駅伝という舞台が憧れの場所に変わりました。
ちなみにこの当時の私は箱根駅伝に憧れてはいましたが、関東の大学に行くことなんて考えてもいませんでした。笑

ちなみに、中学時代は長距離走にのめり込んでから人としても成長することができました。
中学校のある先生が”長距離走を全力で行っている生徒はしんどいことをしているから人よりも心が広く優しい子が多い”と言葉をかけてくれました。
中学2年生まではなんの目標も無く、ただただ退屈に過ごしていた日々だったのですが、その生活に終止符を打ちクラス代表の役をするまで成長することができたのもこの競技のお陰かなと思っています。

中学生までは野球少年でした。

運命を左右する出来事

高校は野球ではなく陸上をやると決めていましたが、公立高校の陸上部では上の世界で戦うことができないなと悩んでいました。
そんな悩んでいる中でしたが今後の運命を左右する一本のお誘いが。
私立高校の名経大高蔵高校(後の進学校)から勧誘を受けました。
応接室で名経大高蔵高校駅伝部顧問の加藤先生と母親の三人でお話を聞き、当時名経大高蔵高校は愛知県で7位のチームで強豪校という訳ではなかったのですが、まだ強化し始めて4年目のチームだったので伸び代があるチームでもありました。
ただ口で聞くだけでは物足りず、百聞は一見に如かずということで体験に行くことにしました。
行ってみるとグランドにはタータンがあり、走っている先輩方もみんなカッコいい。
より一層行きたいという気持ちが強くなりました。
ただ、からは公立高校に行くものだと思われていましたし、何なら自分自身も11月までは公立高校に行く準備をしていました。
今更親に言っても納得させることができないなと思いながらも言わないと後悔するなとも思い、両親に名経大高蔵高校へ行きたいと言いました。
そしたら母親からは絶対体験に行ったら行きたいと言うと思ってたと言われ、父親からも行くならしっかりと勉強もしろよと言われ快く背中を押してくれました。

両親のおかげもあり、私は名経大高蔵高校に進学することになりました。

一応中学校でも駅伝を少しかじってました。
写真は後ろが私です。
ハチマキを髪の毛の上から巻き、ランパンの下にタイツを履く如何にも中学生らしい格好です。

憧れから目標の場所へ

名経大高蔵高校に入学すると、中学校までは毎日全力で走ることしか頭になかった思考ががらりと変わり、トレーニング理論に沿った練習メニューを初めて行うようになりました。

インターバルやペース走、変化走、ジョグなどを顧問の加藤先生が週ごとに考慮されたメニューを組んで下さり、それを淡々とこなすというような日々には新鮮さと衝撃を受けました。
インターバルに関しては、リカバリーは歩くものだと思っていて、リカバリーに入り歩こうとしたら先輩に走るんだよーと言われて恥ずかしい思いをしたのを覚えています。笑

そんな右も左も分からなかった長距離走という競技の世界でしたが、この練習を行えば強くなれるだろうという確信もありました。
練習メニューを継続して行った結果、3000mのタイムは中学校のPBが9'30"ぐらいでしたが、高校入学から半年足らずで8分台まで乗せることが出来ました。
今となっては練習で当たり前に走れるタイムですが、当時そこまで自分が成長できると予想出来てなかったのでとても嬉しかったですし、より一層競技にのめりこむようになりました。

その後は夏以降に長期の故障をしてしまい、中々レースに出場することが出来ませんでしたが、2年生は継続して練習することが出来て主要大会にもチームの代表として走れるようになりました。
そんな競技を行う中、関東の大学に行って挑戦してみたいなと心の片隅で考えるようになりました。

初めて8分台を出した際のリザルト。
今となっては有名人の名前が多いですね。笑

運命を左右する出来事②

関東の大学に行って挑戦してみたいという気持ちとは裏腹に結果を残せないという競技生活が3年生では続きました。
当時自分の持ちタイムは5000m15'09”という持ちタイムでした。
当時関東の大学に行くには最低でも14分台がボーダーラインだったので、自分の中で少し焦りが出ていました。

その一方で高校の同期の子が関東の大学の進学が早くも決まり羨ましさもある反面、自分でも遠い世界ではないなともプラスに思っていました。
それでも自分の悪い傾向として春から夏シーズン結果が残せないという傾向があり、5000mでは自己ベストすら更新することが出来なくてどうしようかなと悩んでいたらまさかの思わぬ種目で創価大学からお声がかかることになります。

それは1500mです。

1500mの県予選を走っていたら瀬上総監督からお声をかけて頂きました。笑
実はその前から他の大学からもお誘いを頂いていて、僕の中の進路はその大学か創価大学の二択に絞られました。

そして二つの大学両方とも見学した結果、創価大学への進学を決めました。
まさか自分がここまで本当に箱根駅伝に近づくことが出来るとは想像もしていなかったので、夢を見ているようなフワフワした感覚になっていました。

ちなみに創価大学に初めて見学しに来た際は、後に同期になる片岡、新家、松田、横山もいてこのメンバーとその際に仲良くなったのも創価大学を選択した一つの決め手でしたね。 

この関東への大学進学に関しても両親は快く送り出してくれて、特に普段大人しい父親からはより強い環境で挑戦して来いと背中を押してくれたのがいい意味で意外だったので、鮮明に覚えています。

高校生の頃の新家(4年)
初々しいですね。笑

エピローグ

ということで今回は高校まで編ということなので、この辺りで留めておきたいと思います。
このまま大学編まで通して綴ろうと思ったのですが、少しどころかかなり長くなりそうだったので区切ることにしました。

ここまでの私自身の進路を決める際の特徴としては自分のやりたいことに挑戦し、求められている場所に突き進んだというような傾向があります。
家庭事情などももちろんあると思いますが、もし進路に迷っている場合は自分から飛び込むことも大事ですが、自分を求められているに場所行くという選択も大事なのかなと、あくまで私の意見ですがそのように思います。

あとこれは別件ですが…
本田晃士郎(創価大学駅伝部の副主将)がnoteを始めました!
彼の世界観も素晴らしいものがあるので、是非読んでみて下さいね👌

👆🏻本田のnoteのリンクはこちらからどうぞ

ということで続編は大学編です。
今後の展開に期待していて下さい。

今回も読んでいただきありがとうござました!

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