フットボールは夢をみる

2018年7月9日の月曜日はうだるような暑さの布団の中で目覚めた。昨日の練習で激しく競って腰を打ったところが固まって起き上がれない。大腿の筋繊維が炎症で熱くなっているのが分かると、その他にも数カ所、傷がついたところがじわじわと痛み出す。1週間で唯一のオフである月曜日の朝。僕は片時もサッカーを忘れない。

この文章を書くことになったきっかけの話をしなければならない。

物心がついた時にはサッカーをしていた。初めて入った地元のサッカースクールには、最初、「オムツが取れたらまた来てください。」と言われたそうだ。だから僕は1週間でオムツに別れを告げ、サッカーを始めた。

それからはずっとサッカーの虜で、いつもピッチの上に僕の人生はあった。サッカーは、父であり、夢であり、世界であり、あるいは僕自身だった。

小学生からはサッカーチームに入って毎週末試合もするようになるのだが、そこではいつも自分を表現する喜びを感じていた。頭の中に描いたものがプレーすることで周りを動かしている。また目まぐるしい変化の中で僕も周りの影響を受けている。どうにもならないことや予想のつかないことばかりで、それでも僕はそこにいてもがいている。

更にそれを超える瞬間がある。それはついこの間もあった。

僕は後ろから高く上がってきたボールを見ている。確認していなかったが、左前からディフェンスが1人来ているのを知っていた。左足でボレーシュートをイメージさせる動きのままワンタッチで相手の股下を抜くようにコントロールする。その流れから淀みなく身体を入れ替えると、迷いなく左足を振り抜く。

1秒にも満たない一瞬間、僕は無意識の中にいた。もう一度やれと言われてもできない。どうやったのかと言われても分からない。

もしそれを例えるとするなら川だ。水のように何に囚われることもなく、何の作為も持たない。偶然、一回性、不完全、チャンスとタイミング。サッカーは川の流れのように美しい。

この瞬間を誰が見ていただろうか。股を抜かれたディフェンダーか、あるいはベンチにいた監督、たまたま東京に出張で観に来ていたチームメイトのお父さんか。

"今、ここ"にある価値を考えてみる。論理ではない、言葉では表せないもの。サッカーが伝えられる価値にはもっと可能性がある。

サッカーはサッカーを超えなければいけない。文化として根付き、人々の生活の真ん中にあり、明日を変えるきっかけにならなければならない。


僕はサッカーをする。

そしてこれからはサッカー選手である僕が書く文章で何かを伝えていきたい。特にこだわりを持つつもりはないが、とにかく流れる日々の上を揺れつつ、何かが書けたらいいなと思っている。


今、僕を揺れ動かすのは、

笑いとユーモア、夏の風と匂い、誰かの夢、あいつの一言。

僕はフットボールの夢をみる。

フットボールは夢をみる。



スペイン1部でプロサッカー選手になることを目指してます。 応援してくださいって言うのはダサいので、文章気に入ってくれたらスキか拡散お願いします! それ以外にも、仕事の話でも遊びの話でもお待ちしてます!