悲しき熱海
五泊六日で熱海に行ってきた。
仕事で行ったと言いたいところだが、実際のところは遊びだった。
遊びとは五感を素直に体験し、神々と戯れることだ。
わたしは脳細胞を全開にし、心身をすみずみまで駆使して、
ぶっちギリギリ限界に遊び果てたのである。
それほどまでに苛烈な遊びとはいったい何なのかというと、話はひと月ほど前に遡る。
私の友人に、画家で彫り師をやっているARIKAちゃんという青年がいるのだが、
彼から『熱海のニューアカオで展示をやるのだが、その展示の模様を別視点からまとめた小冊子を作らぬか』というオファーをいただいたのだ。
彼が話してくれた構想は以下のようなものだった。
昨年に営業を終了したニューアカオの一室に滞在し、そこに訪ねてくる友人たちと一晩ホテル内をともに探検する。そして翌日、ホテル内で見つけたモチーフの中からひとつ選んでもらい、それをタトゥーとして友人に彫る。それを毎晩繰り返し、彫ったタトゥーをすべてドローイングに起こして、さらに回しっぱなしのレコーダーで録った会話などとともに、滞在していた部屋に展示する。
この構想を聞いた時点で『ヤベえな。すっげえ面白えじゃん、それ』と思っていたのだけれども、いざやってみると面白いどころではなかった。フィールドワークとロケーションハンティングとディスカッションを一緒くたにした、限りなく修学旅行に近いそれは“死ぬほど面白い”というにやぶさかでないものだった。
熱海は一種異様な空気をはらむ、霊的な土地として知られている。
数々の秘宝館や新興宗教施設がある広大な山々と、光がざわめく青銅色の遠大な海が対峙する、
そのちょうど接点に位置するあの街は、時間の流れ方がすでにちがっている。
駅周辺はひとが賑わうイカニモな観光地だけれども、人いきれを抜けて、褪せた水彩画のような商店街までゆくと、時間の流れる速度がゆっくり静かになるのが肌で解る。
たとえるならば一枚のレコードを聴き終わり、針が持ち上がったときに広がる静寂だ。
亡霊の気配とでもいうのか、『ひなびた』とか『いなたい』という形容詞では到底表現できない、死をかくまう幕のようなものが街ぜんたいを覆っている。
そうした熱海の空気を煮詰めたのがニューアカオだ。
かつて自殺の名所であった断崖絶壁に建てられたこの廃ホテルは真偽不明の逸話満載で、『創業者の赤尾蔵之介氏の夢に神様が現れて“あすこにホテルをつくりなさい”というお告げをした』だとか『ホテル内でイルカを飼おうとして逃げられた』とか色々あるわけだが、そういうヤバいエピソードを全く知らずとも一歩足を踏み入れただけで、明らかにヤバい空間なのが解る。
十年がかりで潤沢な資金とコネクションをフルに活用して作られた内装は、隅々まで美意識が行き届いていて、エレヴェーターの壁面の模様とか階段の手すりに至るまでいちいちカッコいい。そういうエキゾでモンドな“美”溢れる空間でどういうモチーフを見つけ出すのか? というのが今企画のキモなのだけれども、まずここが面白かった。
今回招かれた友人たちは皆、写真家だったり音楽家だったり漫画家だったり、つまりは表現活動に邁進する創作者だったのだが、全員目の付け所が違った。反応する箇所も感動の作法もそれぞれで、ものづくりに携わる友人たちの美的感覚の在り方を間近で見るというのはシンプルに良い経験だったし、より深く彼らのことが理解できたような気がした。
わたしは彼らとともに熱海の夜に身をゆだね、闇にくるまり、さまざまなものを見聞きした。墨を流したような水面を走る光の帯を見、桟橋の船がたてるひそやかなささやき声を聞いた。毎晩やることは同じだったけれど、どの夜も少しずつちがっていた。我々が送る日常と同じように、非日常もまた時を刻んでいるということをわたしは痛感した。
新陳代謝によって数ヶ月スパンで身体を更新しやがて死に至るわれわれ人類にとって、刺青とは永遠性を獲得するための、きわめて自然で有意義な営為だ。いつか死ぬその日まで残り続けるそれを、気心の知れた友人とともに過ごすひとときの中で探し出し、彫る/彫ってもらう。というのは、きわめて深いコミュニケイション=魂の交接だ。
わたしはこの数日間でさまざまなものを感じ、いろいろな思索にふけった。この人生の中でもっとも風変わりかつ幸福な晩秋の記録をどうまとめるかについてはまだ決めかねているが、きっとそのうち何らかの形で発表できると思う。どうかご期待ください。
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