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連続パンク小説『ババアイズノットデッド』 第八話





この世の全てのおばあちゃんと全てのおばあちゃん子に、そして最愛の祖母・笑子に心からの心を込めて本作を捧げる。

 



第八話 あなたの名前

 一週間後。
 ヒナタがエレヴェーターに乗り込むと、厚いファイルを胸のまえで抱えたほっそりしたナースが、柔和な笑みをうかべて『何階ですか』と聞いた。八階です、とこたえるとナースはボタンを押し、ヒナタはちいさく頭を下げた。扉が閉まり、緩慢な速度で上昇するエレヴェーターのなかで、ヒナタは腕いっぱいに抱えたフルーツ牛乳をぼんやりと見つめていた。やがて扉が開き、八階へ降りるとヒナタはまたナースに頭を下げた。ナースは柔和な笑みを浮かべたまま、うなずくように会釈を返した。

 ガン病棟の廊下は清潔で静かで、空気の流れというものを感じなかった。外は熟れた熱気に包まれ、盛夏の日差しが照り付け、蝉の鳴き声は騒がしいほどだったのに、ここはまるで別世界のようだった。停滞した時間が横たわり、凝った空気が立ち込める廊下を、ヒナタは重たい足取りで歩いた。

 816号室の扉を開け、白いカーテンで包まれた窓際のベッドへ行くと、微かな寝息が漏れ聞こえてきた。起こさぬようにヒナタはそっとカーテンを開け、静かに眠る祖母の姿を見つめた。真っ赤に染めたベリーショートの髪にはところどころ白髪が混じり、ピンクの七分丈の手術着からのぞいた腕は青白く、指先はかさかさにヒビ割れていた。そうして穏やかな顔で眠るウメをヒナタはしばし黙って見つめていたが、ふいにウメがぱちっと目を開けた。

「……あやっ?」

 そしてウメはベッドの脇に佇むヒナタを見ると、いそいそ身体を起こした。

「ヒイちゃん、来てたんか。すまなんだ、寝てたわ」
「別に、寝てていいよ」
「せっかくヒイちゃんが来てくれとるのに寝てられますかい」
「これ、フルーツ牛乳。売店で買ってきた」
 
 ヒナタが両手に抱えた大量のフルーツ牛乳をベッドの上にどさっと投げると、ウメは目を丸くした。

「ありゃまたこりゃまた、ずいぶんいっぱい買って来たなぁ。じゃあ、一緒に飲むかいねえ」
「何がいい? いちごオレとか、バナナオレとか、色々あるけど」
「いちごがええなあ」

 ヒナタはいちごオレを手渡すと、自分はバナナオレを取り、残りをTVの下の小さな冷蔵庫にしまった。そして見舞い客用のパイプ椅子に座るとバナナオレにストローを挿しながら、ヒナタはウメに尋ねた。

「……具合、どう」
「ぜーんぜん。なんもなんも。することなくって、眠たくなるばっかだ」
「……そっか」
「入院ちゅうのは、ひまねえ。こうやってヒイちゃんが毎日お見舞いに来てくれるのだけが楽しみじゃ」

 イチゴオレを飲みながらウメは薄い肩を揺らして笑ったが、ヒナタは笑わなかった。そうしてふたりは黙ったまま、フルーツ牛乳をちびちびと飲み続けた。ヒナタは甘ったるいバナナオレをストローで啜りながら、これまでのことを思い返していた。


 ……コインランドリーで踊り明かしたあの夜、路上で意識を失ったウメはすぐさま救急車で病院に担ぎ込まれた。ウメの意識は程なく回復し、ヒナタの両親もすぐに駆けつけたが、医者から聞かされた話はまさに寝耳に水であった。末期癌で骨転移しており、もはや痛みを取り除くぐらいしか手の施しようがない、と医者はいった。さらに衝撃だったのは、春頃にウメはいちど来院していて、そのときすでに余命宣告を受けていたという話だった。これにはヒナタも両親も大いに狼狽した。ウメは元気そのもので、そんな様子はおくびにも出していなかったし、むしろ春頃から人が変わったようにハイテンションで活動していたのだと伝えると、余命宣告を受けた患者が活動的になることはたまにある、と医者は答えた。そして、幾度となく激痛に襲われていただろうにここまでよく耐え抜いた、ともいった。話の最中、ずっと黙ってうつむいていたヒナタが、全身から絞り出すような声で聞いた。
『……おばあちゃんは、おばあちゃんは……あと、どのぐらい……』
 最後のほうは言葉にならなかったが、その意味を汲み取った医者はこわばった顔でこう答えた。
『年内……いや、十月まで持つかどうか、というところです……』



「……ちゃん、ヒイちゃん、ヒイちゃーん」
「えっ?」
 声をかけられたヒナタははっと我に返った。ウメは心配そうな目でヒナタの顔を覗き込んだ。
「どうした、ボーっとして。具合悪いんかい?」
「ううん、別に、平気」
「そげか」そしてウメは鎖骨のあたりをぽりぽり掻きながら言った。「フェス、間に合うべか」
「っ、間に合うとか、そんな問題じゃ、ないじゃん……」
「せっかくの大舞台だっちゅうのになァ、何とか間に合わせたいねえ」
「だからっ、間に合うとかっ、そんな問題じゃないじゃん! フェスなんか出れないよ! 無理に決まってんじゃん!」

 膝の上で拳をぎゅっと握り、顔を真っ赤にしてヒナタは声を張り上げた。ウメは一瞬驚いたようだったが、すぐに優しい顔になると静かな声でいった。

「……うん。わかっとる、わたしは、ドラムはもう、たたけん。すまなんだ」
「なんでっ、なんで今までずっと、病気のこと、隠してたのっ、ねえ、なんで!?」
「……夢を、見たんだわ」
「……ユメ?」
「うん。余命宣告されたその夜にな、じーさんが夢に出てきて、わたしに言ったんだ。自分にとって意味のあることをやって、ハートを燃やせって。何にもせんでおとなしく残りの人生を生きるより、新しい人生を始めろって」
「……っ」
「病気のことを打ち明けたら、あとはもう、閉じてくだけになっちまうべさ。あわれまれてひっそり死んでくより、心が感じるままに明るい道を歩こうって、そう思ったんよ。そうやって生きてみたら……思った通り、や、思った以上に……おもしろかった。生きるって、すばらしいことだんね」
「……ばかじゃ、ないの」

 ヒナタは大きな目からぼろぼろ涙を流し、全身を震わせて泣き始めた。ウメは困ったように笑いながらヒナタの手を握った。

「あらら、ヒイちゃん、泣かないで。泣いたら美人が台無しだ」
「やだよ……死んじゃやだよう……」

 ヒナタはウメの胸に顔をくっつけると、はらはらと泣いた。ウメはヒナタを優しく抱きしめると、頭を撫でながらいった。

「……ヒイちゃんはいい子だ。こーんな優しい孫を持てて、わたしゃほんとに幸せもんだわ」

 ヒナタは子供のように泣きじゃくり、ウメは胸元が熱い涙でぬれるのを感じていた。窓から差し込む夏の光が、ふたりを優しく包んでいた。

 ——泣いて泣いて泣き果てて、身体中の水分が全て抜けてしまうのではないかというぐらい大泣きして、やっとヒナタが泣き止んだとき、もうすでに、陽は暮れかかっていた。ヒナタは鼻水を啜ると、真っ赤に腫れた目をごしごし擦って、ゆっくりと立ち上がった。

「すっかり遅くなっちゃったねえ。もうそろそろお帰んなさいな」
「……から……」
「ン?」
「……フェス……ひとりでも、出るから……」
「え」
「じぶんにとって、意味あることをやれって……おじいちゃんは、そう言ったんだよね」
「あ、ああ、そう言うてたけんども」
「じゃあ、出る。アタシにとって、意味あることは……いちばん意味あることは……音楽しか、ないもん……」

 ヒナタは鼻を啜りながら、まっすぐウメの顔を見据えていった。真っ赤に腫れた目は潤んでいたけれど、その瞳の奥には力強い光がともっていた。そうしてキョトンとしているウメに、ヒナタはすっと握りこぶしを向けた。

「……アタシは、やる。やってみる。そんで……アタシたちは最強だって、証明してやる」

 ウメは目を瞬かせていたが、やがて顔をくしゃくしゃにして笑った。

「……うん。それがヤングの力だ」

 そして、“孫と私”はたがいに拳をぶつけあった。ふたりのハートは夕焼けのごとく、熱く、熱く燃え盛っていた。

 ——それから。
 ヒナタはまるで何かに取り憑かれたかのように、ギターを弾いて、弾いて、弾きまくった。毎日ウメの見舞いに行き、家へ帰ってくるなりすぐさま部屋にこもってギターを弾いた。そして合間合間に曲を作り、スタジオに行って歌った。音楽、音楽、音楽。ヒナタはとにかく音楽に没頭した。泣く暇なし、泣く暇なし、泣く暇なし。ヒナタは何度もじぶんにそう言い聞かせながら、己の全実存を賭けて、圧倒的に、絶対的に、究極的に音楽にのめり込んだ。


 そして夏が終わり、瞬く間にフェスの日がやってきた。ウメは弱っていくいっぽうで、人工呼吸器をつけるまでになっていたが、それでもついに、この日まで生き延びた。ヒナタは病魔に蝕まれゆくウメをずっとそばで見守ってきたが、あれから一度も涙を見せることはなかった。病院が開くと、ヒナタは朝イチでギターケースを背負ったままウメの病室へと向かった。人工呼吸器をつけたウメはベッドに苦しそうに横たわっていたが、それでもヒナタが姿を見せると、薄く笑みを浮かべた。

「……ああ……ヒイちゃん……」
「おはよ」
「……あれえ……ふぇすは……きょうじゃなかったんか……?」
「ん、このあとすぐ駅向かって電車で行く。そのまえにいっぺん、おばあちゃんに会おうと思って」
「ふふ……うれしいねえ……」
 
 ウメは息も絶え絶えで微笑んだ。ヒナタはギターケースから何かを取り出すと、それをウメの目の前へ持っていった。

「……こりゃあ……」
「ドラムスティック。おじいちゃんが最後のステージで使ってたってヤツ。部屋、勝手に入って持ってきちゃった」
「お、おお……」

 ウメは枯れ枝のような手を伸ばし、スティックを掴むと胸にそれを抱きしめた。

「形見持ってくるとか、なんか、フキンシンかなって思ってたんだけど。今日は、それと一緒に、アタシがうまくいくって祈っててほしくて」
「……おお、おお……これさえありゃもう……ばっちりよ……」
「んじゃ、アタシ行くね。バタバタしててごめん」

 そしてヒナタが踵を返したとき、ウメが精一杯の声で、名前を呼んだ。

「……ひいちゃん……」
「……なに?」
 ヒナタが振り返ると、ウメはドラムスティックの先端を向けながらいった。
「……ぶちかませ」
「……うん」

 ヒナタは力強く頷くと病室を後にした。そうして廊下を歩きながら、ヒナタは頰を両手で何度も叩いた。やるぞ、やるぞ、やるぞ。と呪文のように繰り返しながら。病院を出るときも、駅で電車に乗り込むときも、乗り継ぎのときでさえ、ヒナタはずっと、心の中で、やるぞ、やるぞ、やるぞ。と繰り返し続けた。

 そうして二時間弱、電車に揺られて栃木の足利駅へたどり着くと、東京とはまるで違う澄み切った空気に、ヒナタは気持ちがしゃんとなるのを感じた。快晴の空では太陽がさんざめくように光り輝いており、涼やかに吹く秋風がなんとも心地よかった。そうして辺りを見回すと、SAWAGASHIの出演者専用マイクロバスが停まっていた。“孫と私”名義にも関わらず一人きりだったので、スタッフに何か尋ねられるかと思っていたが、難なく乗車することができた。車内はスタッフや関係者にまじって有名なミュージシャンなども乗っていたが、ヒナタはつんと澄ましてみせた。ナメんな。と心の中で想いながら。ほどなくバスは走り出し、会場へと向かった。


 

 三十分ほどでバスは会場となる大型公園に到着した。スタッフに促されるまま、ヒナタはバックステージへと向かった。野球場や多目的運動場に設営されたステージでたくさんのスタッフが忙しそうに動き回っているのを見ると、急に、“フェスに出る”という実感が胸の中でこみ上げた。指先がじぶんの意思とは無関係に震え、心臓の鼓動は強くなった。ヒナタは歩きながら胸に手を置き、ふかく呼吸した。この緊張も、この不安も、この高揚も、この哀しみも、ぜんぶ、ぜんぶステージの上に置いてきてやる。そして誰よりも大きな声で歌ってやる。

 バックステージとなる広場には、仮設のプレハブ小屋がたくさん立ち並んでおり、その中のひとつを丸ごとヒナタは割り当てられていた。扉のガラス窓には『孫と私』と書かれた紙が貼ってあった。ヒナタはスマホを取り出して時間を見た。

 ——13:23。 
 “孫と私”の出番は17:50予定。
 SAWAGASHIはサウンドチェックが終わるとそのまま本番に入るので、リハは無い。
 つまり、あと四時間半で本番。

 ヒナタは、よし。と一人ごちると、スマホで“孫と私”と書かれた紙を撮ろうとした。しかし、シャッターボタンをタップしようとしたまさにその刹那、電話が鳴った。母親からの電話だった。ヒナタは冷たい手で心臓を鷲掴みにされたような気持ちになった。頭が真っ白になり、こめかみがじんじん疼き出した。それでも、震える手で通話をタップすると、果たして母親は崩落していた。電話に出るなり母親は涙声でいった。

「ヒナタ……こんなときに、電話しちゃってごめんね……いま、話せる……?」
「……大丈夫。なに」
「あのね……おばあちゃんが……おばあちゃんがね……」
「わかった、もう言わないで。用件はわかったから。出番終わったら、すぐ向かうから」
「ごめんねっ、ごめんねっ、こんなときにっ、こんな電話して……」
「謝らなくていいから。だから泣かないで。いや泣いていい。電話切ったら好きなだけ泣きな」

 ヒナタがそういうと、母親はもはや言葉にならない声を漏らすのみだった。またあとでかける、といって電話を切ると、ヒナタはスマホの画面をじっと見つめた。そしてスマホをぎゅっと握り締めると、胸のまえで手を組み合わせ、目をかたく閉じた。ヒナタは祈りたかった。何かを強烈に祈りたかった。けれど、何をどう祈ればいいのか、まったく解らなかった。頭がじんじん痺れて、胸がつぶれそうだった。怖くて、さびしくて、とにかく悲しかった。

 いますぐ、おばあちゃんに名前を呼んでほしかった。

 『ヒイちゃん』と呼んでほしかった。

 名前を、呼んでほしかった。

 
 


♪Sound Track :Your Name / NOT WONK




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