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こんな時代になったのか

 「アメリカの求人登録サイトによれば、サイトに登録する求職者の半数がAIで自己PRを書き」と2023-3-11の朝日新聞が紹介していた。そして、オチが。
 「多くの企業がそれらの書類をAIで選別しているという。」
 なんか、どこかで聞いたような、笑うに笑えない落語のような話かもしれないが、これがわれわれが生きている現代らしい。

 伊藤大地という人が書いた記事だが、その記事は「誰が言ったかではなく、何を言ったか」が2000年代のスローガンだったが、今や誰が言ったかがまず問われるというわけである。

 見出しはこうなっていた。
「その文章、人が書いていますか?」 「AI時代の怪談」

 怪談でも落語でもいいけれど、以前には、判決文の一部にAIが書いた文章があったという記事も読んだことがある。

 求人サイトの話ならそれを使って書く方も書く方だが、採る方も採る方だくらいで済ますことができるかもしれないが、判決文となるとどうなんだろう。

 確かに判決文は、判例重視だから、AIに馴染み易い面があるが、裁判官の「心証」というようなものもある。
 自らが得た心証を自己否定するような情のない判決文は、読みたくないものである。

 先の求人の話に戻ると、AIが判定した結果、人が書いたということで、就職OKということもあったとか。…いや、冗談だが。
 何れにせよ、これからは手書きで書くということも大事になってくるかもしれないから、手書きの読み書きも上手にしておくとよいかもしれない。手書きも、たどたどしい活字体でなく、筆記体で格好良く書けるといい。
 AI審査官は頭が良いから手書きの筆記体でも読めると思うので余計な心配は要らないのではないか。

 何しろ日本語の草書体や崩し字が読めるAIが開発されているようなのだから、日本史を専攻して史料が読めないというコンプレクスをいだかなくとも済むかもしれない。

 AIは多くの画像を記憶しているから、美術史では、作品の思いがけない源泉の追究や、非専門家による画像の比較もきわめて容易にしてくれるだろう。

 ヒトの命に関わる医学分野での画像の読み取りも、いっそう正確になるのだろう。
 AIのプラス面にも期待したいものである。
 
 
 


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