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中村彝の「川尻風景」(ポーラ美術館蔵)

 毎日新聞に「アートの扉」(2021年11月22日の夕刊)というコーナーがあり、そこに中村彝の作品「川尻風景」(ポーラ美術館蔵)についての記事があった。最近知ったが、内呂博之氏(ポーラ美術館学芸員)がそれを書いている。
 内呂氏は、この作品の様式的な特徴から制作年には諸説あるとしているが、この作品と、モネが描いたエトルタの絵との構図上の類似性、ある対象の形態上の類似性を認めているようだ。
 モネがエトルタの断崖を描いた作品は複数ある。が、とりわけある1点に似ている。そして、その複製画「エトルタの岩」は、彝自身の作品が当時カラーで何度か掲載された美術雑誌に載っていたのである。
 私はいくつかの文献やブログでかねてから指摘してきた彝の作品「川尻風景」とモネの作品「エトルタの岩」との「奇妙な」一致についての小論を、内呂氏がどこかで読んでくれたのかと思ったが、それついては全く言及がなかった。しかし、氏が語っている重要な内容の根拠としているところは、小論の内容が根拠としているところと同じである。
 この作品「川尻風景」は、現実の川尻の風景であるかもしれないし、モネの複製画の変形かもしれない。そして、それが現実の川尻の風景であるとしても、モネの複製画との類似性には否み難いものがあるのだ。 
 「川尻風景」は、かつて単に「風景」と呼ばれ、地名が特定されていなかった。しかもその制作年は大正3年(1914)頃とされていた。実際、様式的には、大島風景が描かれた頃の特徴を示している。
 彝の大島風景は複数点あり、ドロドロとした表現主義的なものからセザンヌ風のストロークが見られる厳しい様式を示したものまであるが、「川尻風景」に類似したフォルムの大島風景もある。
 従って彝のこの作品が、日立の川尻の風景でなく大島の海岸風景とするなら制作年も様式もほぼ説明がつくが、これを「川尻風景」とすると、彝がそこに行ったのは明治40年(1907)の夏のことだから、その頃このような様式的特徴を示す作品があり得たかと想像すると、それはかなり難しい。
 ところで、モネの「エトルタの岩」の複製画が『現代の洋画』に載ったのは、大正元年の9月である。そしてこのカラー複製画と「川尻風景」に偶然ではない否定しがたい類似性が真にあるとするなら(私はその全体構図や特に水面描写のパターンなどからあると思っている)、彝は大正元年(1912)の9月頃から同3年(1914)頃にかけてこの作品を制作したのではなかろうかと思われる。
 彼は、モネの絵の厳密な模写を目指したのか、それとも最初から自由でラフな模写を狙っていたのか、それは解らない。X線調査でもすれば、少しは解るかもしれないが、後には自由に変形し、かつてそこに行ったことのある川尻の風景をスケッチブックなどから思い出すなどして、そのような海岸風景に変形してしまったと推測することは許されるかもしれない。
 あるいは、もちろん、大島にも川尻と似たような風景対象があるのなら、それは大島風景の1点と見做し、大正4年(1915)頃までの制作とも考え得るだろう。
 


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