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中村彝によるモネ作品の模写

 ポーラ美術館に日立の川尻の風景を描いたとされる作品がある。
 これに関連して私は他のブログ記事で、それは、ある美術雑誌に載っていたモネのカラー図版を彝が模写し、それがなんらかの理由により、後に対象が変更され、描き直された場合の可能性について述べた。もちろん、特定のモネ作品との類似は、単なる偶然の一致である可能性も排除されるものではない。(実際に描き直しがあったかどうかは、X線検査によって、確認できる場合がある。例えば、過去に描いたモネ作品の模写の改作だとすれば、そこに描かれていたはずのアヴァルの門の完全な形状が透かし出される場合があるだろう※。しかし、描き直しによる直接的な改作でない場合は、もちろんその形状は出てこない。)

 海の断崖を描いたそれらの作品の基本的な構図や海面に映る光と影の波のパターンは、私には偶然の一致以上に非常によく似ているように思われた。

 モネがエトルタの断崖を描いた作品は数多いが、それぞれに見られる光と影による海面における波のパターンや空の描写などは、同一のモティーフ、同一の対象でありながら、皆異っている。
 ところが彝が描いたとされる日立の川尻の風景における海面の描写と、『現代の洋画』に載っているモネのカラー図版の海面描写における光と影による波の色面パターンや空模様は、表面的にかなりよく似ているのである。(もちろん、それぞれの作品が持っている本質的気分や空間の大きさといったものは非常に異なる。)

 ところで、以前のブログ記事では書かなかったが、実は鶴田吾郎がこんなことを言っていた。

 「彝は…祖母と姉と原町の寺の側にある二階家に住んでいた。私の家から十五分も歩けば行かれるので互いに往来していた。幼年学校で習ったフランス語が役立ちカミーユ・モークレールの印象派の本を辞書を引きながら読むとともに、その中にあるモネのエトルタの海岸風景を徹底的に模写していたりした。中村は初めより色彩感覚が鋭く、これは印象派に共鳴してしかも理論的に解釈して勉強を進めていた。」(『半世紀の素描』より)

 鶴田吾郎は、彝がモネの風景画を模写していたことを明瞭に語っていたのだ。しかも、それは、エトルタの海景画であり、「徹底的に」模写したとまで明言している。
 ただ、鶴田は、それをカミーユ・モークレールの印象派の本からと言っているが、それはどうだろう。
 今、私の手元にそれと見られるモークレールの原書がないのでモネのエトルタを描いた作品が(カラー図版で)載っているかどうか確かめられない。だが、大正5年に出版された翻訳本ではカラー図版など1枚もなく、白黒図版でもモネがエトルタの断崖を描いた作品は載っていなかった。

 よって、鶴田はモークレールの原書から彝がモネ作品を模写したと述べているが、実は他の本から彝が模写していたのを見ていて、後に年代を勘違いして、こう書いているのではないかと私は疑っている。(もし、モークレールの原書にモネが描いたエトルタの海景画が載っていたなら、以下のフレーズも改めた上で、この記事も書き直そう。)
 たぶん彝がモークレールのフランス語の原書を読んでいた事実と、彼が他の本、または何らかの複製画からモネのエトルタの海景画を「徹底的に模写」していた事実が、後年の記憶の中で一緒にされてしまったのではないか。

 彝が見ていた可能性がある他の本とは、言うまでもなく、私が別のブログ記事で書いた『現代の洋画』第6号のことである。そこには、モネの「エトルタの岩」のカラー図版がある。
 しかも、この雑誌には、彝自身の作品も既にカラーで掲載されることがあったのである。だから、彝がこのカラー図版を見ていた蓋然性は極めて高い。

 さて、鶴田が述べている彝が牛込区原町に住んだのは明治38年の11月のことだ。一方、モネのカラー図版が載っていたのは、明治45年9月のことである。年代的に開きがあるけれども、彝が油彩画を始めたのは早くても明治39年であり、ポーラ美術館がこの作品を取得する前は、この作品の制作年はさらに遅い大正3年ころのものと推定されていた。
 しかし、彝が日立に行ったのは明治40年のことなので、この作品のタイトルを「川尻風景」としているポーラ美術館は、この作品の制作年を「明治40年?」としているのかもしれない。

 けれども画家は後年に古いスケッチから油彩画を描くこともありうるし、模写作品を他の風景に変換してしまうことも自由である。
 作品の制作年を画家の伝記的な事実に、必ずしも合わせる必要はない。


 エトルタの断崖と川尻の崖は、スケール感も非常に異なるが、過去のスケッチなどを参照しながら、モネの模写作品を、日本の現実の風景に近づけ、変換して描くことは、さほど難しいことではないと思われる。

 いずれにせよ、鶴田吾郎が、彝はモネの「エトルタの海景画」を「徹底的に模写」していたとはっきり言っているのであるから、ポーラ美術館の「川尻風景」に少なくともモネがエトルタの断崖を描いた特定の作品の重要な影響を見ないわけにはいかないと思うのである。

※描き直しによる改作やペンティメントなど、X線検査で以前の形状が透かし出されるのは、あくまで下層の油彩画がしっかり固定化され、塗り重ねによっても顔料が溶け出さない場合である。

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