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原郷福島

 「福島には何もないからね」と私も含めてまわりの福島の人はよく言うけれど、これは田舎である福島には魅力的なものが何もないという単純に否定的な意味で使われているのではなくて、もっとずっと肯定的な意味合いで使われているのだと思う。
 「何もない」を表面的に受け取れば、観光地や遊ぶところがないということになるけれど、この「何もない」にはもう一つ、「何もないという余白がある」という意味が込められている。たしかに仙台や東京のような都市に比べると、駅も小規模で、電車の本数も少なく、買い物をする店の選択肢も少ないかもしれない。しかし、ここには大きな都市にはない余白、余地、隙間がある。余白があるからこそ自分の考えを巡らせることができる。
 たとえば東京・渋谷の街を歩くと、どこを見ていてもお店のショーウィンドウや広告の看板、音楽などから何かしらの情報が入ってくる。なんでもあって刺激的で便利だけれどその分モノが敷き詰められていて余白がない。視覚や聴覚などから否応なしに入ってくる刺激的な情報に無意識のうちに身体が反応してしまう。
 私はこの余白の有無を東京から福島へ帰省する際の新幹線の中でよく感じる。東京駅を出発して福島駅まで近づいて行くごとに余白が広がっていくのを感じると同時に、視覚や聴覚が冴えるような感覚を覚える。氾濫する情報に反応するので精一杯だった身体感覚にゆとりが生まれて自発的に何かをする余裕が生まれる。実際福島に帰ると文章を書きたい気持ちに駆られるのは、余白があるおかげかもしれない。
 それと、最近ちょっと怖いなと思っていることがある。それは進行中の福島駅前の再開発事業のことだ。この再開発で中合というデパートがあった駅前に新たに商業施設、オフィス、ホテル、分譲マンションが合わさった複合施設が建設されるらしく、その完成イメージ(下のリンクから見れます)を見ると福島にある余白が狭められてしまうのではないかと危惧している。建築を人間が住む自然な環境の人工的な拡張・延長と考えると、この建築は福島の風土にはそぐわないのではないかと思う。杞憂に終われば幸いだけど、この再開発で福島駅前が金太郎飴のようにどこを切っても同じな均質化された空間にならないことを願うばかりだ。あらかじめ特定の意味や目的を与えられたモノは分かりやすいけど楽しみ方が限定されていて、どこにでもあるような陳腐なモノになってしまう。自ら意味づけを行える余白のある空間の方が自由だ。
 「福島には何もない」ということは「福島には余白がある」ということだ。

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