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『大杉栄評論集』書評

 私たちがあたりまえだと思っている日常はいとも簡単に崩れ去ってしまう。直視するのも厳しい現実を今回のコロナ禍で突き付けられた。「新しい生活様式」や「ニューノーマル」という言葉が氾濫しているのを見ると、これまでの日常とコロナ禍で変わってしまった現実の整合性を取り繕っているような気がする。生きた実感のない空虚な生活の中で『大杉栄評論集』に出会った。

 大杉栄は一八八五年に香川県に生まれた。三八歳の時、関東大震災の混乱のさなか甘粕正彦率いる憲兵隊に拘束され、伊藤野枝、橘宗一とともに虐殺された大正時代のアナーキストである。アナーキストとは、アナキズムを思想信条とする人間のことだ。アナキズムは一般的には「無政府主義」と訳されるがこれは正確とはいえない。アナキズムの語源はギリシア語のanarchosに遡り、接頭辞のan(アン)とarche(アルケー)が合わさってできている。アンが「~がない」という意味で、アルケーが「支配」や「統治」を意味している。アンアルケー(支配がない)でアナーキーとなる。このアナーキーに「~主義の」を意味するイズムを合わせてアナキズムとなる。すなわち、アナキズムとは政府のみならずあらゆる支配や統治、権威を否定する思想といえる。

 この本には大杉が残した文章三九編が収録されている。そのどれもが、現代においても古びることのない鮮烈な檄文となっている。「自我の棄脱」の中で、大杉は私たちが普段「自分の自我」だと思っているものは実際のところ他者の意志によって形作られたものだと指摘する。何を買うか、何を食べるか、一見すると自分で選択したかのように見える日常の行動であっても流行や社会規範など自分以外の何者かによって無意識のうちに規定されているというのだ。このように自分の自由意思の存在を否定されてしまうと、たとえ自分の意志で決定して行動したとしても誰かの言いなりになってしまっているような残念な気持ちになってしまう。しかし、自己を徹底的に解剖して「自我」の皮を一枚一枚脱ぎ捨て、まっさらなゼロの状態に至った時に「真の自我」と邂逅し「他人の自我」を打ち破ることができると大杉は説く。

 大杉が生きた時代は、政府による出版物の検閲が行われ、自由な表現活動を行うことはできなかった。大杉が発行した雑誌も何度も発禁処分の憂き目に遭っている。そんな不自由の中であっても大杉は溌剌と自我を表出し続け自分の生を生き抜いた。アナーキーを生きる大杉栄の思想に触れることで自分の生を見つめ直し、自分と他者の想像を超えた本当の生を生きていくことができるはずだ。この本は、コロナ禍で抑圧され鬱屈とした生を蘇らせる起爆剤となるに違いない。

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