現職オカマが泣く映画『ミッドナイトスワン』(全体編)

 前回の衝動的に書いた初note、意外にも皆さん読んで下さって、またいろいろ嬉しい反応もいただいて、すっかり味を占めました。なのでまた書きます。
 今回は、公開中の映画『ミッドナイトスワン』についてです。Twitterでもたびたび触れていますが、私はこの映画、かなりおすすめしています。こんな駄文を読んでいる暇があるならぜひ映画館へという感じですが、まあ、それはそれとして。
 前半は映画全体について、後半は個別のシーン等について述べていきます。読んでいる途中で気になってきたら迷わずそっ閉じして映画館に行ってください。以下書いていきますが、すでに長くなりそうな予感です。無駄に感情を交えて書くので、どうしても冗長な文章になると思います。まじで暇だぜぇ!という状態で読んでください。(結局マジで長くなってきたので「全体編」と「個別シーン編」に分けることにしました…)

1.映画全体のこと(ネタバレ少なめ)

見るまでの経緯
 私はこの映画をすでに2回見ているが、最初に見に行ったのは公開から約一週間後だった。映画のことは知っていたが、正直当初は全然見る気がしなかった。Twitterで目に入るのは草彅剛の女装画像への茶々や評論家(?)の批判記事などが主。個人的には「あー、いつもの感じやな」というのが第一印象だった。
 いつもの感じ、とは、いわゆるセクシュアルマイノリティに対するメディアの雑な扱い、への嫌気のことだ。出しときゃ今風なんやろ、ほれ感動するんやろ、みたいな安易なノリで登場させたうえ、その描写自体もひどくお粗末、リアリティの欠片もなく、誤解を助長させるばかり…。そんなんばっかなので、基本的に当事者というのはこの手の作品にある種の拒絶反応を持っているもんである。
 そのままいけばずっと見ることはなかっただろう。が、日頃いいこと言うフォロイーがミッドナイトスワンを見てきたと、良かったと、なにより「文句言うならまず見てこいや」と言っているのをみて、やっと私も見る気になった。とはいえこの時点では、半ば批判前提、見終わったらどんな文句言ってやろうか、くらいのノリだった、正直。もっとも、さすがにそれでは作品に失礼だとも思い、精一杯先入観を消して映画館へ向かった。だが、そんな労力は映画が始まってすぐに必要なくなった。気づいたら作品世界に没頭し、そして泣き崩れていた。

トランスジェンダー描写と、映画への批判について(あえて言おう、これは「時代に取り残された”オカマ”」を描いたものであって、ハナから「現代を生きるトランスジェンダー」など描こうともしていない!)
 私が目にした映画への批判としては主に、
・古臭く、ステレオタイプ的なトランスジェンダー観(女性/母性観の古臭さについても同様)
・実在のトランスジェンダーの生活との乖離
といった感じに要約できるだろうか。まあもっともらしい批判だが、少し反論しておきたい。

 一つめ、悲劇のトランスジェンダー、という描写が古臭い件について。もっともだ。使い古されてきた構図でしかない。心と体の乖離に苦しみ、世間の無理解に晒され、主人公は悲劇的な運命をたどる…。
 しかし、この映画においてそれは陳腐の要因にはなっていない。この映画のキャラ設定の優れている点は、最初から「古臭い”オカマ”」として生きているトランスジェンダーを主人公にしたことである。それにより、主人公の境遇と古臭い描写がマッチし、説得力を失っていない。
(※注 ”オカマ”という言葉について
ここでいう”オカマ”とは狭義の意味で、水商売等において女性的振る舞いをしつつも生まれが男性であることを売りにしている人を指している。ちなみにこれは例外なく差別的、侮蔑的な言葉なので、たとえ当人が自称していても、他人に向けて使っていい言葉ではないです。その辺は黒人に対する”ニガー”にも似ているのかな。 ※注終わり)
 女性観、母性観の固さに対する批判もある。が、これも同様に、作品内で主人公がそうした固定観念に強烈な憧れを持っているという描写がある。映画としてというよりも、そもそも主人公自体が古臭い人間として描かれているのだ。

 二つめも、結局同じような話になってくる。実際には、現代におけるトランスジェンダーは、あからさまに日常的な差別を受けている人ばかりではない。戸籍を変更し、見た目もシスジェンダーと区別がつかず、元の性をまったく悟られることなく暮らしている人がいくらでもいる。この作品はそうした人々を無視してはいないか、日常に溶け込んでいるトランスジェンダー達への想像力を阻害してはいないか。
 これまたもっともなのだが、でも逆に聞いてみたい。日常に溶け込むトランスジェンダーというものを、どう作品で描くのか?と。トランス女性であれば、もはやその生活は客観的にはただの女性「でしかない」。トランス男性であればその逆。そこには何の変哲もないただの人間がいるだけ。それがなんの作品になるのか。あるいはこうも考えられるのではないだろうか。他のあらゆる作品の主人公は、わからないだけで実はトランスジェンダーなのかもしれない、と。トランスジェンダーとは、そういうもんである。

ストーリーのご都合感を圧倒的に上回る人間描写のクオリティ
 ほかにもこの映画には、一見雑なストーリー、わざとらしい悲劇的展開、といった評価がついている。いわゆるご都合主義というやつだ。作品内の出来事のキャッチーさばかり先行して、登場人物の人間としてのリアリティがついてこないという状態。この作品にも確かにそういう展開はある。がしかし、別にそれは説明できないような意味不明さではないし、出来事に対する登場人物の反応には十分すぎるほどのリアリティがある。総じてこの映画は、本当にこういう人間がいたんだ…と感じさせる作品になっていると思うし、実際「ドキュメンタリーのようだ」という感想も見かける。
 そして、私は作品世界に没頭した。主人公の一つ一つの行動、言葉、動作、表情…。すべてに覚えがあった。感情をこれでもかと引き出された。思えば、何かの作品でこれだけ強く心を動かされたことはなかった。本当に、見てよかったと思える映画だった。

(「全体編」は以上 「個別シーン編」に続く…)

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