見出し画像

感謝に生きる

今日はなんだか疲れていて、もしかしたら明日がもう来ないのかもしれないな、とくよくよ考えている。感染したのが自分だけならいいが、人を巻き添えにしていたらどうしよう、とも考えている。ここ数日、頭痛が続いているのだ。計ると熱はないが、手足が熱い。なぜだろうと思えば思うほど、不安ばかり募る。毎日、そんなことを考えていたら、元気がなくなってきた。あかん。これでは『病は気から』になってしまうじゃないか。自分から病気になってどうする。

感謝しよう。朝、目がさめたら、「よかった」と思って、ありがとうございます、と言おう。そして、1日をたいせつにしよう。

そう思ったのは、学習院大学国際社会科学部の「学部長祝辞・卒業生代表による謝辞」を読んだせいでもある。二人の代表が謝辞を綴っている。

①の人は、自分は努力したと言えるならば、成果を残した「自分」に感謝すべきだと言い、②の人は、自分が成果を残せたのは「皆さま」のおかげだと言った。

わたしの感想。①の謝辞には、日本人特有の様々なしがらみを絶つ潔さや、信念を感じたけれど、それを読み手に受け入れてもらえるような表現方法を選んでいない。いや、それすら望んではいないのだろう。①の後に②を読むことになるわけだが、①の謝辞が②の謝辞の美しさをひきたてているようにも、あるいはそれが凡庸な形式美にも見えてくる不思議さ。①の人だけでも、②の人だけでも、こうはならない。なぜか微妙に対を成して、これが「国際社会科学部」の姿なのか、と感じることができた。

余談ではあるが、その二つを3回読んで、わたしは自分の来し方を振り返り、心から「感謝しよう」と思えた。①の人の言うような「自分が努力したからよい成績を残せた」と胸を張れる経験は、わたしにはない。常に誰かに支えられ、導かれ、励まされてきた。時に、叱られ、見放され、貶され、コテンパンに虐げられたこともあったが、その経験で得たものも多々あった。今日まで、わたし一人では生きて来られなかった。もしかしたらわたしもこれから「金と自由を得るために勉強する」ことがあるかもしれないが、とにかくここまでは「全部が感謝」である。どうせ死ぬんだと思ったら、もう全部どうでもいい気がして、ただ、神さま、仏さま、皆さま、ありがとうございます、と言いたくなったのだ。

いや、死ぬにはまだ早いと思っておりますけれども。


サポートいただけたら、次の記事のネタ探しに使わせていただきます。