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こーひー

食べ物に好き嫌いはない方だが、コーヒーが飲めない。

生まれてからずっと飲めないわけではなくて、20代の頃は大好きで、よく飲んでいた。会社のコーヒーサーバーには常にドリップされたコーヒーが温められていて、1日に5杯は飲んだと思う。ところが30代になって、突然飲めなくなった。気分が悪くなって動けなくなるのだ。理由はわからないが、一生分のコーヒーを飲み終わったのだな、と思うことにした。さらに、飲むだけでなく、香りが鼻腔に刺さるみたいな感じで、焙煎の匂いが鼻に痛くてたまらない。近所に素晴らしくおいしいと評判のコーヒー豆屋があるのだが、焙煎をする時間には店の前を通りたくない。コーヒー好きの方には失礼かもしれないが、今となってはどうしてあんなにコーヒーが好きだったのか、思い出せない。

ところが今日、コーヒーを飲んだ。飲みたくない、という気持ちよりも「ここは飲まないと失礼になる」という気持ちの方が強かった。先に「コーヒーは飲めませんのでお構いなく」と言える相手なら良かったが、初対面の重鎮に「はいどうぞ」と出されたからには飲まないで帰るわけにはいかないのだった。

これは以前、絶対明日の朝までに書かねばならぬ原稿があるという日の夜、東京からレジェンドが福岡に来ているのでお前も来い、と呼ばれたときに似ている。そのレジェンドが高級クラブで、さあみんな一杯ずつ飲みなさいと振る舞ってくれたのがウォッカだった。「明日の朝の締め切りがあるので飲むわけにはいきません」とは言えなかった。「いただきます」と飲み込んだ。ただ、原稿の締め切りを念頭において、「酔うわけにはいかん」とめちゃくちゃ気合を入れて、「酔うな、酔うな」と自分に暗示をかけた。するとどうだ。1ミリも酔わなかった。水だったのかもしれない、と思ったほどだ。

だから今日も、「大丈夫。調子は悪くならない」と暗示をかけながら飲んだ。10年以上も飲んでいないせいか、コーヒーってこんな味だったっけ?と、思った。苦くはなかったが酸っぱかった。こんな不思議な飲み物を大人たちが飲むのはなぜなんだろうなあと、ぼんやり考えた。

夕食を食べ終えても、いつまでもコーヒーの香りが鼻の奥に残っている。今回は暗示が効かないようだ。


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