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喪服

友だちのお父さんが亡くなった。

訃報を受け、友だちのことが心配で、すぐにでも駆けつけたい気持ちだったが、その直後に一抹の不安がわたしの胸の内をかすめた。そうだ。喪服。

最後に着たのは、たしか去年。あの時はパツパツで、背中のファスナーを自分で上げることができなかった。朝練に行く前のムスメに頼んで、葬儀が始まるまでの4時間、ろくに座ることもできない状態で待機していた。座るとどこかの縫い目がほころびるのではないかと気が気でなかった。葬儀の間、椅子に浅く腰掛け、必要以上に姿勢を正しく背筋を伸ばし、焼香の時もデパートの入り口で挨拶する人みたいに、背筋は伸ばしたまま、45°に体を折った。

あの時に思った。「痩せよう」。しかし日常はあわただしく過ぎ、いつのまにか「痩せ」についての明確な目標を見失った。決意も薄れた。わたしの頭の隅の方には、いつも埃をかぶった「痩せよう」という決意が転がっている。それを時々思い出し、埃を払い、陽の当たる場所まで持ち出してくるのだが、いつの間にか、日常のあれこれに押しやられてしまい、隅の方に転がってしまう。

あの時、「痩せ」の目的は美容でも健康でもなかった。ただ「喪服が入らないと困る」という一点においてだった。しかし、喪服は誰かが亡くなったり、法事の場でしか着ないため、幸運にも葬儀や法事がない一年を過ごしているうちに、決意が薄れたのだった。

みんな、いつかは死ぬ。死ぬまでどう生きるか。「自分らしく」が一番だ。ただ、自分らしく生きても、現実問題として喪服が入らないのであれば、困ってしまう。だから、自分らしくなくても、ダイエットをせねばなるまい。

さて。亡くなったお父さんのご冥福をお祈りしつつ、明日のお通夜までに何ができるか、考えているところだ。

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