くつした

昨日、市内のホテルに泊まった。チェックアウトぎりぎりまで部屋でのんびりしたので、荷造りはバタバタとすることになった。一泊だけの荷物だから、たいした量ではない。あっという間に済んだ。

オットが部屋を出るときに「忘れ物するなよ。でもまあ、なんか忘れたとしても、すぐに取りに来れる距離だな」とムスメに言っているのを聞いた。ホテルから家までは地下鉄を使っておよそ20分程度。しかし、地下鉄の往復料金は520円である。

家に着いて、洗濯をした。干す時、靴下が片方ないことに気づいた。よりによって、わたしの靴下だ。あちゃー。これは「忘れました」とは言い出しにくい。汚れ物である。受け取りに行って、フロントで「こちらでよろしいでしょうか」とか言われて出されても恥ずかしいし、しかも、大人が履くにはちょっと子どもっぽいデザインなのだ。めちゃ恥ずかしい。どうせパンツだし、スニーカーを履いたら見えやしないし、と思って履いていたやつだ。

さらに、一足220円で購入したので、地下鉄代520円を使って取りに行くのもちょっと、な感じだ。大切に愛用していた思い出の品でもない。

わたしが大好きな漫画家、高野文子の名作「るきさん」を思い出した。

るきさんがおせんべいを口にくわえて自転車で家を出る。「食べながら自転車に乗るのは爽快だ」とかなんとか思いながら。住宅街の角を曲がるとき、思わずるきさんの口に力が入ってしまい、バリン、とおせんべいが割れてしまう。そしてその大半がフワリと飛んでいき、とあるお宅の庭先の松の木に引っかかってしまう。ブロック塀の向こう側だから、るきさんには届かない。

その夜、布団に入ったるきさんは思う。今頃、あのせんべいはまだあの松の木の枝に引っ掛かっているだろうか。そして『わたしが行くには5分とかからないが、せんべいにしてみれば、かなりの距離だなあ』と考える。

わたしは、るきさんが『せんべいの方から帰ってきてくれないかな』と考えているのだろうか、と思った。同じことが起こっても、そんなこと、わたしは思いつきもしないだろう。

だが、今夜のわたしはその気持ちがわかる気がする。わたしの靴下の片方が、ひっそりとホテルの忘れ物置き場にある。あるいはもう、ゴミ箱に捨てられているかもしれない。

あの靴下は、迎えにきてくれると思ってはいないだろうか。すまん、迎えに行かないわたしを許しておくれ。そして、あまり思い入れもなかった消耗品の靴下が、なんだかちょっと特別な品になっているのも不思議なものだ。


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