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制服なし、成績順位発表なしの中学高校を経て私たちが手にしたもの

友人のFacebookに『なんとなく読んでみた記事が母校について書いてあった』というコメントと共にシェアされたリンクをクリックしてみると、我が母校の1年後輩である『柚木麻子』さんによる書籍『らんたん』についての記事だった。

まずはそのシェアされた記事をぜひ読んで欲しい。

我が母校は東京都世田谷区経堂の高級住宅地という立地にありながら、校内にはプールの代わりに畑があり、制服も無ければ成績順位発表も無ければ校則も無い(正確にはある)、とんでもなく変な学校だった。

中学受験は国語と算数の二教科で、試験内容も特殊だ。

特に国語は漢字や4文字熟語など中学受験定番の出題はほぼなく、答案用紙には四角い枠が並んでいるようなほぼ白紙状態。

そこで小学校6年生にして私たちは自分の考えを問われ、自分の言葉で書かされたのだ。

友人曰く『友達はコンペイトウのようだとはどういうことですか?』という問題があったとのこと。

その時私たちは何を思い、何を書いたののだろうか。

そんな試験を突破して入学した生徒たちが一風変わっていないわけがなく、やっぱり私たちはどこかそれぞれに『変』だった。

自分の感じていることを話す『感話』について

恵泉で過ごす1日は教室かフェロシップホールと呼ばれるホールで行われる礼拝からスタートする。

礼拝は先生が指揮することもあれば生徒が指揮することもあり、『説教』と呼ばれる部分を生徒による『感話』というものになることもある。

『感話』というのは漢字の通り、『私が今感じている事を話す』のだ。

どんなことでも良く、何を話しても良い。

たまに突拍子のない事を話したり全くつまらない話をする事もある。

しかしそれに対して『感想』はないのだ。

ただ礼拝中に順番が回ってきた生徒が『感話』を発表して終わり。

ただそれだけである。

しかし『感話』を繰り返すことで私たちは大きな自信を6年間で付け、他人の考えが自分の意見と違うとしてもそれはそれ、として受け入れられる力を養われてきたのではないかと思う。

『自分の考え』というのは否定されたらどうしよう、みんなの意見と違っていたらどうしよう、とネガティブな気持ちが先行し、なかなか口に出せないものである。

しかし『批判』も無ければ『感想』もなく、ただ自分のいま感じている事を話すだけの『感話』は、『自分の思いを誰かに伝えても良いのだ』という自信へと繋がっていたのかもしれない。

それは生徒間に存在する歪の無さにも表れているように思える。

他人と違ってそれで良い

中学高校という思春期、特に女子校とあれば多少のイジメは発生してもおかしくない。

しかし恵泉という学校には『いじめ』が存在しなかった。

あの子苦手、とか、あの子嫌い、などはあったかもしれない。

しかしそれは個人の意見であり、私は私、という独立した考えを持ち合わせていた生徒間ではそこから『イジメ』には発展しないのだ。

私たちは個を個として受け入れていたのだ。

制服がない学校というのも、個性を尊重し個の考えを大切にされていたからであり、何がいいか悪いかは自分で考えなさい、と言われているのだと受け取っていた。

その辺りの個人的な話をすると、私はロングブーツで登校するような中学生だった。

授業参観で靴箱の上に置かれたロングブーツを見た保護者が「ロングブーツで登校している子がいるの?」と言っていたらしいが、それも全く気にならないような校風だったのだ。

ただ好きだから履いているだけ。

ただそれだけなのだ。

闘争心よりも大切なのは自分の気持ち

成績の順位発表がないのも先の記事を読んで思い出し、私はこう感じた。

成績順位を知っていればもしかしたらもっと勉強を頑張っていたかもしれない。

しかし恵泉では『あの子に負けたくない』という闘争心よりも、自分の中の自分を見つめ、自分がどういう考えを持っているのか、を常に考える事に重きを置いていた。

誰かに負けたく無いという思いよりも、私たちは常に自分と向き合っていた気がする。

大学受験期も戦うのは同じ受験生ではなく、いま目の前にある問題。

誰かよりいい成績を出したい、ではなく、この問題をどうにかして解きたい!という気持ちが強かったのもこの学校での6年間が影響している気がする。

気がする気がするばかりで申し訳ないが、卒業して20年以上も経つので容赦してほしい。

しかし私が離婚した当初会社に就職する事なく駆け出しのフリーランスを続けることを選択し親元遠く離れ沖縄で暮らし続けているのは、恵泉で養われた『自分はどうしたいか』を考えた結果であることは間違いない。

他力本願であった自分を捨てるために選択した今の生活は、恵泉での6年間が大きく影響している。

学校は伸び伸びと出来る場所だった

学力競争とかけ離れた学生生活を送ることで、私たちが得たものは『安心して帰れる場所』だった。

競争はなく、それぞれがそれぞれに頑張っていた場所。

いい意味で他人に興味がなく、いい意味で依存し合わない関係性。

そうした6年間を過ごす事で私たちはかけがえのない安心できる場所を、思春期に都会のど真ん中で維持できていたのだ。

そして大人になった今、多方面で活躍し、それぞれが目の前の問題と戦い続けている同級生を思うと、自分もここで止まってはいけない、と励みになるのだ。

そんな励みを得ることができ、心の底から恵泉を卒業して良かったと思う。

10代から学力で他人と比較され、はっきりと誰かより下だと分かる成績順位というものは勉強を頑張るきっかけにはなるかもしれないが、果たして学校にそれが必要なのだろうか。

その答えは分からない。

しかし毎週末四谷大塚で全国模試を受け続けた小学4、5年の伸び悩んでいた私に希望を開いたのは、この恵泉の特殊な問題だった。

正解が一つではない記述式の問題。

自分がどう思いどう感じたかを自由に書くことが出来る恵泉の試験問題は、私にとって最高に楽しい問題であり、初めて国語が楽しいと思えたものだった。

よくテレビ等で『小学校の恩師は誰?』という類のものを目にするが私にとっての恩師は小学校の先生ではなく、間違いなく『二和学院の森山先生』である。

単に記憶をするという勉強法が性に合わず算数ばかりしていた私に二教科受験を勧めてくれ、そして恵泉というぴったりな学校を見つけてくれたのが森山先生だ。

森山先生との出会いがなければ私は恵泉に入学していないどころか、中学受験に失敗していただろう。

どんな時にどんな人と出会い、どのような関係性を築くかで人生は大きく変わる。

だからこそ人との出会いは大切に、多くの人と関わって欲しいと我が子には思う。

現在小学3年生の娘。

沖縄のやんばるで野性的に育った我が子も恵泉に入れたくなってきた。

だがしかし学力が及ばない。

『琉球』からの帰国子女枠で入れてくれないかなぁ。

まずは『らんたん』読んでみよう。

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