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何時間も涙が止まらなかったらうつ病だった

13年程前
その日は、
朝から涙が溢れて溢れて、
何時間も止まらず、
困り果てて病院へ行った。

何科でみてもらてば良いのかわからず、
総合案内で聞くも、
涙が溢れて声にならない…
そんな様子を見て、案内されたのが
心療内科だった。

初診なので、
とても長い待ち時間だったが、
その間、一度も涙は止まらず
広い待合室で、
回りの人は異様な感じで
見ていた気がする。

持って行ったハンカチも濡れ
大量のティッシュも
使い果たし、
泣き過ぎて目も腫れ、
頭痛も酷く
鼻詰まりで窒息しそうだった。

何時間も涙が止まらないと、
喉が渇く…という事に気付き、
お水を買った。
泣きながら、
水分補給をしているうちに
やっと診察室に呼ばれた。

問診の結果、
自立神経失調症、
うつ状態…と言われた。

薬をもらい、
帰る頃には、
涙は、止まっていたように思う。

初めての心療内科、
初めての鬱診断に、
戸惑った。

子供が幼稚園の頃から、
一人っ子の親、
転勤族…という事で、  
PTA役員、
ボランティア活動を断れず、
ずっと頑張って来た。  

この時、
結婚後3回目の転勤先だったが
漏れなくPTA役員、
ボランティアに選ばれ、
しょっちゅう学校に足を運んでいた。

私は、人前で発言する事がとても
苦痛だ。

緊張のあまり手も声も震え、
途中から何を話しているのか
頭が真っ白になる事が多かった。
涙がこぼれて慌てる事も多かった。

「転校生のお母さんは、役員やボランティアで、学校に来ると、子どもの様子が見られるし、先生が気にかけてみてくれたり、子どもも安心して過ごせますよ」

と、転校の度に言われ、
断れない性格で、
子どもの為とも思い、
引き受けていた。

PTAに行くと、
ママ友ができたり、
良いこともあった。

この時、
一軒家の借り上げ社宅に住んでいたのだが、
お隣の奥様と、
ガーデニングの趣味が合い
とても親切にして下さったのだが、  

いつの間にか、
行動の監視をされているような発言が増え
恐怖を感じるようになっていた。

車、数日無かったけど、
どうしたの?
遅くまで明かりついてたね。

春は家の回りの泥上げ
夏は庭の手入れ、
冬は雪かき、
家の回りを綺麗に保つ事を
サボる事ができなかった。

近所の人のだらしなさなどを
私に話すものだから、
見られてる!
ちゃんとやらなきゃ…
と、気を休める事ができなかった。

時々、朝や夕方、
ご主人がお留守の時に電話が来て、
色んな愚痴を、聞く事が多かった。

それでも、ご近所付き合いは、
うまくできていた。

主人の仕事の忙しさは、
変わらず、
毎日、何時に帰宅するかもわからない。
お弁当を作っても
食べる時間が無く、
そのまま持ち帰る事も多かった。

帰宅しても仕事。
休日出勤。
子どもの学校行事にも、
ほぼ顔を出す事も無く、

運動会、学習発表会では、
母子家庭のようだったので、
お友達家族が、
一緒に見たり、
お昼を食べたりに
誘って下さり、
いつも救われてた。

今、振り返っても、
どれが大きな原因で
うつ状態になってしまったのか
わからない。

長年、自分の気持ちを押し殺し、
家族や回りの人に合わせて
生活してきた事。

社交的なしっかりしたお母さん像。
言いたい事を我慢し続け、
物わかりの良い妻像。

この長年の蓄積が、
どっと表れたんだろうと思う。

今まで、自分の精神がオカシイ…
と何度となく思っても、 
心療内科、精神科に行く
勇気が無かった。

転校生は、
目立つからか
女の子特有の、焼きもちや妬みで
、娘はいじめにもあっていた。

毎朝、迎えに来るお友達が
突然、口を聞いてくれなくなった…
と悩んでいたので、
送り出した後も、
しばらく様子をみていたが、
やはり、迎えには来るが、
先を急いで歩いて行ってしまい
娘を無視していた。

しばらく様子を見て、
娘にどうしたいか聞いた。
自分で解決できそう?
と、聞いたら、
話しかけても
口きいてくれないから、
原因がわからない…と。

「それなら、ママから
○○ちゃんのお母さんに電話して
話してみようか?」

と言ったら、そうして欲しいと。

○○ちゃんのお母さんに、
最近の二人の様子について
話し、
「○○ちゃんに、何が原因なのか…
うちの娘が、傷付ける事でも言ってしまったのか…聞いてもらえませんか?」
と電話した。

「えー、知らないって言ってるよ。
なんだったんだろうねぇ?」

って、質問に質問が返ってきた…

話にならないなぁ~と思った。

翌朝、いつものように迎えに来た○○ちゃんは、ちょっと、ぎこち無かったけど、
何事もなかったように、話してくれたようだ。

原因は分からなかったけど、
女心は、小学生ながら複雑だ…と
転校の度に感じた。

子どもの仲たがいに、
なるべく口出ししないようにしたいが、
義務教育の間は特に、
子ども自身の気持ちを優先しながら、
対応するのが大切だと感じた。

私は、通院しながら、 
夜散歩をしたり、
ヨガ教室に行ったり、
リラックスできる時間を作るようにした。
 
授業参観で会った
あるお母さんに、
お茶に誘われ行った事で、
また心がドン底に落ちる事になった…

子どもの話や、世間話かと思いきや、
宗教の勧誘だった…
またその場で断れず、
何度か誘われるがまま、
参加した。

参加する度に、
恐怖の気持ちに襲われ
思い切って断ったのだが、
その日から、
毎日ストーカーのように、
夜散歩中に現れては、
しつこく誘ってくる。
「やらないと不幸になる…」
と言うような言葉に恐怖を感じ、
夫を呼んだ。

夫は「うちには必要ありませんので、
二度と妻に近付かないでください。
何かあれば、警察に通報しますよ」
というような事を言ってくれて、
それ依頼、ストーカーは、終わった。

それでも夜散歩にでると、
恐怖に襲われ、
過呼吸で動けなくなり、
車で迎えに来てもらった事もある。

うつ状態が酷く、
死にたい…死にたい… 
生きててごめんない…
と思うようになっていった。

もう毎日苦しくて、
実家の母に
「お母さん、ごめんね…元気でね…」
と電話して切り、
そのまま自殺しようとした。

母は、慌てて仕事中の夫に電話をしたようで
忙しい仕事を投げだし、慌てて帰ってきた。
私は、着物の紐を使って死のうとしていた。

慌てて、首から紐をほどいてくれたが 

死にたい… 
生きててごめんなさい…
と泣く私に、

夫は、死んだら絶対ダメ!
死んだら、俺も、娘も、お母さんも、
みんな悲しいし苦しむ。

お前が死んだら、
俺は生きていけない…と言ってくれた。

ギュッと抱きしめて、
泣き止むのを待っていてくれた。

絶対独りで死なない約束をして、
また仕事に戻って行った。

でも私は、
どうしたら、
楽に死ねるのか…
どこで死んだら、
迷惑がかからないか…
を色々考える日々から
抜け出せずにいた。

少し冷静になった時に、
私が自殺したら、
『娘に一生、心の傷を負わせてしまう』
と思った。

娘の存在が、
死にたい気持にブレーキをかけた。

死にたくなったら、
娘の気持ちを考える… 
を、するようになった。

主人は、その時の勤務地に配属されてから、
4年半に、なっていた。
私の体調回復の為、
環境を変えた方が良いと考えたようで
上司に転勤願をしていた。

私は、
また、環境が変わる不安。
病院が変わる不安。
娘が6年生という事の不安。

不安が大きかった。

でも、夫が私の為と考えてくれた事が
とても嬉しかったし、
環境が変わる事で、
良い方向に変わる場合もあるかもと思うようにした。

小6の夏で転校した娘は、
運動会を2回経験した。
修学旅行は、前の学校で行けて良かった。

小学校入学から2年生の3学期まで
通った小学校に、
6年生の夏にまた戻った。

おかけで、卒業アルバムは2校分ある。

入学した小学校でも、
仲の良いお友達たちから、
酷いイジメに合っていた事から
娘は、過度のストレスがかかると
チック症の、症状が出るようになった。

それについても、高校時代まで、通院しながら経過観察したが、大人になった今でも、
強いストレスを抱えると、症状がでる。

何度かイジメにあい、
そのたびに性格が変わった。

子どもの心と向きいう事を
とても大切にしてきた。 

子どもがいなかったら、頑張れなかった。
あの時、死んでた…

子どもと夫のお陰で、
今も生きてる!