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都会の喧噪がトラウマに
商業高校卒業後、東京の金融機関に就職した。
本社は港区赤坂、配属先は南青山、寮は目黒区駒場東大前だった。
東北出身者は、寮生活。
6畳1間の2人部屋。
仕切りもなく、一人3畳ずつ使う感じ。
月曜から金曜日は、寮のお風呂が10時まで使えた。
食事は、寮母さん夫婦がつくってくれた物を食堂で朝晩。
この食事、おかずが、かまぼこ1枚だったり、さんま一尾だったり、デザートは、切ったバナナとか、オレンジ一切れとか。
寮費を払っている割に、十分な食事を取らせてもらえていなかった。
土日は、寮母夫婦が休みの為、お風呂も食事も無し。
近くの銭湯に行き、電車の定期の範囲内で、下北沢や、渋谷に買い物にでかけた。
寮生は、門限が22時だった為、残業が終わらなくても、門限ギリギリに着くよう帰宅させられた。
しかしお風呂も10時、食堂も10時までだった為、お腹をすかせ、お風呂に入れず、台所の給湯器で顔や頭を洗い、寝る日々。
同室の子は、あまり残業のない支店だったので、私が帰宅すると寝ている事もあった。
押し入れは、部屋の奥側だった為、私の布団は出してくれていたように思う。
同室の子とも、仲良くしていたものの、私は、心身休まる事が無かった。
ストレスで過敏性腸症候群の症状があり、寝ようと思うと、腹なりがうるさく、同室の子に、とても申し訳なかった。
心身は疲れきっているのに、リラックスできず、睡眠不足の日々だった。
通勤時は、井の頭線の駒場東大前駅から2駅で渋谷駅へ。
渋谷駅構内がスクランブル交差点と化した人混みを通り抜け、地下鉄銀座線へ。
銀座線から一駅で表参道駅着。
乗り替えが無ければ、4駅程の移動だ。
青山支店の定期性係となった私は、後方業務で、定期預金の仕事を
殆ど座る事も無い位の忙しさの中、こなした。
昼休みは、同期と先輩方と一緒に、注文したお弁当を食べたり、週一度は、ランチ外出した。
私のいた青山支店は、女性の平均年齢が20歳と、とても若かった。
言動がキツかったり、いじめたりする先輩が多い支店だったようで、早くに辞めてしまう子が多かったようだ。
私は、寮生活、毎日の残業、支店の人間関係のストレスを発散する事もできず、体調を崩した。
『自律神経失調症』という診断名だったが、今思えば、完全にうつ病だったと思う。
毎日、駅近の電話ボックスで、実家の母に泣きながら電話していた光景が、未だに忘れられない。
その時に聞こえる、電車の音がトラウマとなり、未だに電車の音を聞くと、悲しくなる。
その当時は、テレホンカードだったので、トランプができる位の量がたまる程、しょっちゅう母に電話していた。
とても辛そうな私に、両親は
「辞めて帰っておいで」と言ってくれた。
せっかく就職したのに、1年ももたずに辞める事が情けなかったが、一人暮らしをする収入も無く、このまま、寮生活を続けたら、体調は回復どころか悪化してしまうとおもった。
仕事は、とてもやり甲斐があり、辞めてしまう事は、とても悔しい気持ちだった。
正直に気持ちを支店長に伝えた所「体が1番だから、とても残念だけど…」と退職願を受理して下さった。
仲良しだった同期メンバーや、とても優しくして下さった支店の先輩方に送別会や見送りまでして頂き、その年の12月で退職し、実家へ戻った。
東京生活は、研修期間も入れると9ヵ月程だったが、同期とあちこち遊びにいったり、関東にいる同級生と会ったり、外泊届けを出し、夜の渋谷で遊んだり、楽しい思い出も沢山あった。
今だから、わかるのだが、HSP気質の私には、とてもストレスフルな環境だった。
人混みの恐怖、ネオンの光、電車を含む都会の喧騒は、私には絶えられない環境だった。
もう二度と、都会暮らしは無理だと思った経験だ。