鬼滅の刃・煉獄さんに見る仏教
映画『無限列車編』のヒーロー
映画『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』の国内興行収入がとうとう日本映画史上初の400億を突破しようとしていますね。
今回の映画は、日本国内だけでなく海外の国々で公開されるたびに大きな話題を呼び、アメリカでも興行成績が大躍進中です。
日本っぽすぎる世界観のために、受け入れられないのではないかと言われていましたが、全くの杞憂に終わりました。そういえば外国の皆さん、刀とか侍とか大好きでしたね。
この映画でなんといっても人の心をとらえて離さないのは、作品の真の立役者である煉獄杏寿郎でしょう。炎柱として鬼を滅して人を守り、正義を貫いてまっすぐに生き抜いた彼の姿に、誰もが深く心を揺り動かされます。
今だから言いますが、実は私は初め、煉獄さんは敵キャラだと思っていました。派手好きの音柱以上に派手な見た目ですし(笑)、柱合会議の時には炭治郎と禰豆子に反対していたし、なにより煉獄という名前に引っかかったからです。
みなさん、気になりませんでしたか?
煉獄という名前
私は(エッ、神曲?)と思いました。煉獄という名前を初めて知ったのが、ダンテの叙事詩『神曲』だったからです。
(「かみきょく」ではありませんよ、「しんきょく」と読みます)
『神曲』はダンテが古代の詩人に案内されて地獄、煉獄、天国と3つの黄泉の国を旅するという話です。
「煉獄」とは聞きなれない言葉ですが、キリスト教で地獄と天国の間にある場所を意味します。死者が罪を償う所で、ここで反省し、悔い改めた者は天国へ、改めなかった者は地獄に落ちます。
どうして煉獄さんは、その場所が名前になっているのでしょう。
言葉に深いこだわりが見られる作品なので、わけがあってのことに違いありません。
この煉獄という場所では浄めの火が燃え盛っており、悔い改めた死者の魂はその炎によって罪を浄化され、天国に導かれていくといわれます。
「浄化する火」のイメージから、炎の呼吸を極め、代々炎柱の家系となっている煉獄家の名前になったのかもしれません。
そういえば、煉獄さんの無意識領域でも、炎が燃えていましたね。
キリスト教とノブレスオブリージュ
煉獄とはキリスト教の概念で、仏教にはありません。
さらに煉獄さんは、黄色と赤毛に赤い瞳という見た目からして、かなり西欧人風です。
でも、それだけではなく、煉獄さんの生きざまも、人々の心をがっちりつかんだのではないでしょうか。
母親が幼い彼に諭した
なぜ自分が人よりも強く生まれたのかわかりますか。
弱き人を助けるためです。
生まれついて人よりも多くの才に恵まれた者は
その力を世のため人のために使わねばなりません。
弱き人を助けることは強く生まれた者の責務です。
責任を持って果たさなければならない使命なのです。
決して忘れることなきように。
という言葉は、彼の強い信念となっており、どんな困難にも、どんな強敵にも、最後まで諦めずに立ち向かい続けます。
これは、欧米社会のノブレス オブリージュ(noblesse oblige)という考えと重なります。
財産や権力を持つ社会的地位の高い者は、それ相応の義務を負うべきである
身分の高い者は、社会的責任と義務を果すべきである
という道徳観。
貴族や富裕層の果たすべき義務として、貧困層へ富の分配や社会貢献活動を行うというのは、ヨーロッパ社会では昔から浸透している概念ですが、日本ではまだまだなじみの薄い言葉です。
この精神を胸に宿す煉獄さんは、西洋騎士の誉ともいえるでしょう。
揺るがずひるまず雄々しく炎の刀を振るう彼の、人気が出ないわけがありません。
俺は俺の責務を全うする!! ここにいる者は誰も死なせない!!
気づけば、見た目も名前もその精神も、すべてが西洋風な煉獄さん。
言葉回しがいかめしいため、全く違和感はありません。
「どこ見てるんですか?」と炭治郎に聞かれてはいますが…あれは関係ないかな?
儚さを尊ぶ仏教精神
このままでは「煉獄さんは西洋のナイトなんだねー」という話で終わってしまいますが、もう少し彼のセリフを追ってみると、しっかりと仏教に根ざした考え方が見えるものがありました。
それは、上弦の参の猗窩座との接戦の最中に
お前がこれ以上強くなれないのは 人間だからだ。
老いるからだ。死ぬからだ。
鬼になれば 百年でも二百年でも鍛錬し続けられる。強くなれる。
鬼になれ。鬼になれば 怪我もすぐに治り寿命も長い。
と誘われたものの、
老いることも死ぬことも 人間という儚い生き物の美しさだ。
老いるからこそ死ぬからこそ たまらなく愛おしく尊いのだ。
強いということは 肉体にのみ言うことではない。
こう言って、きっぱりと断るところ。
つまり、猗窩座の言う、人間であることのデメリット(命の有限さ)こそが、人間の魅力であると言っているのです。
お釈迦さまの言葉にも似たものがあります。
お釈迦さまはその人生を終えようとする際、弟子に
この世は美しい。人の命はなんと甘美なものだ。
と語りました。
草木や花や川や海も、すべては変わりゆくもの、この世にあるものすべては諸行無常。
二度と同じ状態に戻らないからこそ、その景色が美しく感じられます。ずっと同じままで変化しなかったら、いつか飽きてウンザリするでしょう。
お釈迦さまはこの変わりゆく世界を肯定的に受け入れて、この言葉を残されたのです。
限りある命だからこそ、私たちもかけがえのない人生をすばらしいと感じることができます。たとえ齢を重ねて見た目はしわくちゃになっても、長く生きてきた人の持つ歴史は、美しく感動するものですね。
つまり、煉獄さんの考えはお釈迦さまと同じで、仏教の悟りの境地に近いものです。
鬼になって人を食べるのは断じてイヤですが、永遠の若さを保つ永遠の命は魅力的。それでも、その魔力に打ち勝って、煉獄さんのように「老いることも死ぬことも人間の美しさだ」とあるがままに受け入れるようになると、人生がよりいとおしく見えることでしょう。
胸を張って生きろ。
己の弱さや不甲斐なさにどれだけ打ちのめされようと、心を燃やせ。
歯を喰いしばって前を向け。
その真っすぐな生き方に胸を打たれた私たちは、彼の心意気をしっかりと受け取っています。見終わった後に爽快感に満たされるのは、そうした効果があるのかもしれません。
作品中で煉獄さんにもう会えないのは残念ですが、鬼滅の刃はとてもエモーショナルで心を揺さぶられる作品ですね。
また機会があったら、仏教的な側面から語ってみたいと思います。
それではこの辺で、ボジソワカ。
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