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排他的になることへの違和感と多様性の作り方

最近違和感を感じでいることを書きました。2分程度で読み終わります。

誤解を恐れずに言うと、最近「女子会」に違和感を感じることが何度かありました。といっても、女子が嫌いとか男子がいなきゃ嫌だという話ではありません。女子だけで集まることもよくあります。

まず前提として、わたしの母校(高校)は男女比が1:9で女子の方が多いような学校でした。もちろん、女子だけで集まることに何の違和感も感じることもなく過ごしていました。

大学に入ってからも、入った日本舞踊サークルは女子ばかり、ボランティアサークルも女子の方が多い環境でした。寮生活だったので、同じフロアももちろん女子。
だから、意図して女子だけで集まらなくても女子だけになることはよくあります。

以上のことからおわかりいただけたと思いますが、私は女の子が苦手なわけでも女子で集まるのが嫌いなわけでもなく、むしろ大好きです。高校時代に仲の良かった友人と集まるのも女子だけの方が多いですが、そこで違和感を感じることはありません。
大学のサークルや寮の友人だって同じです。

では、私が違和感を感じる「女子会」とは何なのか?

最近違和感を感じた女子会の共通項は、「わざわざ女子だけで集まる会」でした。

・男の子もいるコミュニティでわざわざ女子だけを集める。
・男女関係なさそうな趣味にわざわざ女子会と名付けて集まる。

もちろん、行ったら楽しいんですよ。私は女の子は大好きですし、気楽です。同性だからこそ話せることもあります。

じゃあどうして違和感を感じるのか?

その前に、私が違和感を感じない「女子だけの集まり」を考えてみました。

・そもそもそのコミュニティに女の子しか入ってこない
(私の入っている日本舞踊サークルや寮の友人、高校の友人のように)
・計画時には男女問わず誘っていたが、たまたま女子だけになった

こういう場合は、あまり違和感を感じません。つまり、「その集まりに男子がいないことが極めて自然な場合」に、女子会に違和感を感じないのだと思いました。

どうして違和感を感じるのか?

それはきっと、「排除」に対してだと思っています。「女子会」と名付けることで男子が排除されること。

男女だけの話ではないのですが、何かを排除し、それで集まること。わざわざ男女という2つに人を分けてしまうこと。

私にとって、女子会に感じる違和感は、この「排除」が原因となっていました。

私は普段から「多様性」「寛容」という言葉をよく口にしています。国の違いや文化の違い、性別の違い…色々な違いがありますが、それらを意図的に混ぜるのもまた、違和感を感じます。それよりも、

自然と混ざり合っている違いをわざわざ明確化しない。

それが多様性への第一歩なのかなぁ、と思いました。

排除することなく、明確化することもなく、違いに対してある種鈍感な人でありたいし、そういう社会であってほしいと思います。

今日も読んでいただきありがとうございます☺

それではまた。

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