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好きか、嫌いか

 
 貴重な記録になるのかもしれない。

 今勤めている会社の、確か二次面接の時だったと思う。当時は最初に筆記があり、次いで支社で一次面接、それに通ると本社で二次面接という流れだった。

 二次は2人の社員の方が面接官だった。「●●さんに面接された」などと話す同僚がたまにいるが、私は誰に面接されたのかまったく覚えていない。ただ左のスーツ姿は宇野宗佑みたいだな、右の方は記者っぽい人だなとは思っていた。

 面接の後半、その記者っぽい方に柔らかい調子でこう聞かれた。

 「人間、好き?」

 「怖いなあ」と思った。私は当時アホみたいに本ばかり読んでいたので、その頃読んでいた本や好きな作家の話をしていたのだと思う。本好きの全てが内向的とは限らないが、まあそうである確率は高いように思う。それにハタチも過ぎれば私自身どうもそうらしいという自覚がはっきりとあった。その柔らかい部分を記者は突いてきたのだと、私は思った。

 その時にどう返したかはあまり覚えていない。いや覚えているような気もするが、自ら記憶の奥底に封印しているような気もする。こういう場合セオリーとして「嫌い」だとは言いづらい。それをやるには余程の頓智か、その対極にある強靭な本音がいる。そして私にはそのどちらもなかった。

 人間が好きだからこそ本だってたくさん読むのだとか、確かそんなどうしようもない答えをしたのだ。そして私は何故かその会社で働くことになり、今日まで生き長らえている。

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 そんな私は今も立派に内向的だ。放っておくと内へ内へと入り込み、自分の心に刃を向ける。そんなことをして何もいいことはないのだが、そういう風に自制できるようになったのは結構最近のことだ。

 だがこの2ヶ月ばかりの異常事態のなかで気付いたことがひとつある。それは人間内向的だからといって、決して人嫌いではないということだ。

 恐らくここ十数日の気持ちのコンディションは過去最悪だ。かつて私は7年近く心を壊した人の世話をしながら会社に行っていたが、あの時でさえ私はうつにはならなかった。なので私はこう見えてうつとは最も遠い生き物なのだと自負していた。しかしそれは間違いだったのかもしれない。根拠のない自信は強いというのはつまりこういうことだ。

 生身の人との何気ない会話が恋しい。次の家の様子を見に行くか、食料品を買いに行くかくらいしか外に出ない生活を生真面目に続けているせいで、私は今まで見たことのない地に足を踏み入れている。自分は人嫌いに見えて実はそうではなかったのかもしれないとおごそかに告白すると、奥さんにそれはそうだと思うよとあっさり返された。普段と違う日々は、普段は見えないものを私に見せてくれる。

 今ならあの記者っぽい面接官にうまく返せるような気がする。だがそう答えたところで、私が今こうして食いつないでいるかどうかはわからない。

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