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てさぐり

白黒つけることが好きでした。

これは正しくて、これはまちがい。
これは良くて、これは悪い。
これはセーフで、これはアウト。
白黒つけることはわたしにとって、片付けに似ています。熱を帯びた頭のなか、散らかったさまざまな概念を見つめ、分類し、棚にしまう。そうして頭のなかを整然と片付けて把握しておくことに、達成感や安心感を覚えるのです。例えるなら、爪切りやハサミをどこにしまったか把握しておくのと同じように、あらゆる概念を必要なときにサッと取り出せるように頭にしまっておく感じです。そうすることが心地よく、なにより「正しい」生き方だと信じていました。そして幸か不幸かその生き方に大きく不具合を感じることなく、今日までキチキチと生きてきたのです。

少し話は変わりますが、「わたしの絵がわたしを追い越す」ということがたまにあります。描き上がってみて、何故こんなものを描いたのだろう、と思う瞬間。厳密に言うと「何故このようなものを生み出してしまったのだろう」と、ある種の罪悪感や嫌悪感に似た感情を抱く瞬間があります。
この線はどうなんだ。このカタチはなんだろう。なんでこんな色を使ったのだろう。絵を眺めながらそう自問自答するとき、お腹のあたりがぞわぞわします。せっかく片付けた頭はじりじりと熱を帯び、また散らかってきている感覚を覚えます。でもお腹がぞわぞわするものだから、片付ける気になれません。
なんでこんな思いをしなきゃならないんだ、と憤ってみたところで、原因はわたしの絵です。わたしが絵の具を出して、筆をとって、あーでもないこーでもないと手を動かし、これで完成だと決めた絵が「こんなものを生み出したりして、一体なにを考えているの」とわたしをなじるのです。なにを考えているの、と言われても、そう問うてくる絵こそが「わたしが考えた結論」のはずなのに、その結論がわたしになにを問うのか。頭は余計に熱を帯び、なんならちょっと目頭も熱くなります。なぜそんなにも責められなければならないのかと、足の踏み場もないほどに散らかった頭のなかで憤慨します。

だからわたしは2年以上、絵がほとんど描けなくなりました。それもあって今回の個展会場には、過去の作品が多く並んでいます。そして、そんな「特に滞りなく描けていた頃のわたしの絵」すらも、いつからかわたしの頭を焦がすものとなり、なかなか正視できずにいました。

何が正しいのか。
わたしの絵とは何なのか。
どう描けたら納得できるのか。
そんなことを考えながらわたしは、頭のなかに散らばったさまざまを並べ替えたりラベルを貼り替えたり、かと思えば蹴散らしたり叩き割ったり…文字にするとなかなかに物騒ですが、そういったことを頭のなかでしつづけました。
全然片付かない。
どこまでいってもゴミだらけの部屋に閉じ込められたような心地、だなんて言うと大袈裟ですが、それに似た閉塞感を感じていました。

そんなことを何度も何度も繰り返して、いよいよもう駄目だ、と心折れてゴミのなかに突っ伏するように倒れ込み、虚ろな目でふと、何故こうなったのかと考えてみました。
誰に閉じ込められたのか。
なぜこんなにも必死に片付けなんかしているのか。
そもそも何がはじまりだったのか。

白黒つけるのが好きなわたしのせいだ、と思いました。
わたしが30年以上もの間「正しい」と信じてきた生き方こそが、わたしを苦しめているのだ、と。そう認めた瞬間、ゴミだと思っていた目の前のものにピントが合い、そのすべてが「かつてのわたしの一部」としてありありと目前に迫ってきました。
かつてどこかで見聞きした「これこそが芸術」の内容に憤ったわたし。
SNSの見も知らない誰かの意見に頷いたわたし。
心奪われた作品をかたちづくる要素に焦がれたわたし。
さまざまな瞬間の、さまざまなわたしが大挙して一斉に「あのとき確かにこれが正しいって言ったじゃないか!」とわたしをずっと糾弾していたのです。それらの「正しさ」は時間が経って色褪せていて、否定するのに十分なほど頼りない正義です。しかし個々に見ればまだ分類できるはずのものが、一斉に差し出されたことによって複雑に絡み合い、正しいとか正しくないとかいう次元の話では片付けられない程にこんがらがっていました。
それらをひっくるめて「まちがい」にすることは簡単です。しかしそれらにかつて「正しい」とラベルを貼って分類したのは他ならぬわたしなので、寸前のところで迷いが生じます。「それをしてしまうと、かつての自分すべてを否定することにはならないか?」という考えが頭をよぎり、どうしようもなくヒリヒリ怖くなるのです。「わたしの今までの正しさが、生き方が、すべて間違っていただなんて、どうしたって認めたくない!」と咄嗟に怯えてわめき散らし、同時にそんな反応をする自分に驚きます。わたしってそんなに自分のことが大事なのか、とちょっと引きます。
しかしもうそれすらも認めるとして、じゃあラベルを剥がすしかない。しかしラベルを貼り替えたことはあれど、剥がしたことは一度もありません。わたしの頭のなかにあるものには全てラベルが貼られています。正しい、まちがい。良い、悪い。セーフ、アウト。それらの均衡を崩すことを考えると、それはそれで真っ暗になるほどゾッとします。
しかし他に方法を思いつくはずもなく、迷いに迷った末、半ばヤケクソでえい、とラベルを剥がしたとき、わたしを苦しめていたかつての「正しさ」は、スン、と糾弾をやめて姿を変えました。「これは正しいはずだ」と必要以上に固執し、「この正しさを捕まえておかなければ」と硬く握りしめていた手をほどいたとき、それらはただの過去となったのです。例えるなら、幻の宝石だと信じて握りしめていたものがよく見ると実は、小説の一頁、思い出の写真の一枚、大盛りの唐揚げの一個、それくらいの取るに足らないものだったと気がついたような感じです。目に見える豪華なきらめきを失ったことに落胆こそすれ、それらは小説を構成する大切な一頁として、大切な思い出のひとつとして、かつてわたしの血となり肉となったものとして、目には見えないけれど確かなきらめきを、変わらずわたしのなかで放っているのでした。
その事実はわたしを愕然とさせましたが、冷静に考えればそれはそうです。すべてはわたしの頭のなかの出来事だったのですから。

しかし果てしない徒労感に変わりはなく項垂れてじっとしていると、長年ずっと「幻の宝石」を握りしめていた手がじんじんと痺れていることに気が付き、わたしは、わたしの手にわたしの血が巡っていることを知ります。そしてこの手はきっとまた筆をとり、絵を描くのだろう、と若干確信めいた気持ちがこころの奥底からぽつ、と浮かんできます。
わたしの絵が正しいかどうかなんて、きっと一生わからない。
けれど、それでもわたしは、絵を描くことが好きだなぁ。
そうしてわたしの奥深くでなにかがうまれるような、ひらくような、そんな気配がしたのでした。

…なんと意味不明な文章でしょう。このような文章が誰かの目に触れるだなんて大丈夫か、と何度も読み返してはうんうん唸ります。咄嗟に「公開するのは正しいことなのか」なんて考えて、白黒つける癖しぶといなぁ、と笑ってしまいます。
この文章は、正しさや正解の話ではありません。わたしという一人の人間が七転八倒し、うんうん唸って、どうすればいいんだよー!と情けなく頭を抱えてわめき散らした記録みたいなものです。そんな、身勝手で幼いいきものの飼育記録のようなものとして、もしも楽しんでいただけるようなことがありましたら幸いです。

てさぐりなわたし。
そのさきの、わたし。
まだ痺れた両の手ですが、それでもわたしの手の感触を信じて、てさぐりをしつづけたいなと思うのでした。

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