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イニシャルG線上のアリア

イニシャルGがきらいです。
イニシャルGとは、黒光りするからだでキッチンなどに出現するあの昆虫のことです。その正式名称を口にするとき、わたしは特有の抵抗のようなものを感じます。名前を言い切るか否かのあたりで、ちょっと眉のあたりに力が入る感じがするのです。ですので、正式名称を避けて、以降はGと呼ばせていただこうと思います。
Gってどうしてあんなにもおそろしいのでしょう。別段こちらに危害を加えてこないはずなのに、わたしは彼らを見ると血の気が引くほどこわくなります。実際かつて不意打ちでGに遭遇したとき、わたしは軽くパニックを起こして自分でもビックリする速度と高さで飛び上がりました。そういった経験もあって、わたしは「人類はいちどGに滅ぼされかけたことがあって、その歴史が我々のDNAに刻み込まれているのではないか」という仮説まで立てていました。人類はみな共通してGがきらいなのだ、それは避けようのない本能のようなものなのだ、と。

しかしどうやら、世の中にはGと遭遇したとき逃がしてあげる方々もいるようです。その方々の考え方は概ね「たまたま住処が重なっただけで同じ命なのだから、人間の都合でころしてしまうのはあんまりだ」といったものです。あのGに対して嫌悪や恐怖を抱かないだけでなく、対等な生き物として尊重できるだなんて、その寛容さには頭が上がりません。
そして世界は広いもので、Gをペットにしている方々もいるそうです。かつて調べ物をしていてふいに画面に映し出された、満面の笑みでGとたわむれる方の画像が今でも脳裏に浮かびます。わたしにとっては絶対に家の中で遭遇したくない生き物をわざわざ家の中に招き入れ、かつ可愛がっている方々がこの世に存在する。その事実は衝撃的でした。しかもなかなか需要もあるようで、従来のGだけではなくペット用Gというのも存在するらしいのです。見た目や色などもさまざまで、個体によっては10万円以上の価格がついているそうです。
つまりどうやら、全人類が共通してGをきらいな訳ではないのです。この事実はわたしを愕然とさせました。息を吸って吐くのと同じくらい、みんな当たり前にGがきらいなのだろうと思っていたのに。特にペットにしている方々がいるというのはわたしにとって受け入れ難いものでした。たくさんいる生き物のなかから、なぜわざわざGを選んだのか。理解しようと試みるも、それはつまりきらいなGについても思い巡らせることになるので、頭がスローモーションのようになってだんだんモヤがかかり、結局は「理解できない」という結論に至ります。

そこまで考えて、むかし似たようなショックを受けたことを思い出しました。かつての後輩との出来事です。わたしは昔からチョコレートには目がなく、お菓子やアイスなどを選ぶ際にもぼぼ決まってチョコ味を選ぶような人間なのですが、その後輩はチョコレートがきらいだと言うのです。衝撃的でした。それまでわたしは「チョコレートやチョコ味がきらいな人なんていない」と思っていたので驚き、半ばあわてて理由を聞いたところ「チョコレートが口の中で溶ける感覚がきらい」とのことでした。口溶けの良さといえば、チョコレートの醍醐味のひとつです。それが楽しめないというのは、わたしにとってなかなか理解しがたいものでした。人生ではじめて出会った、チョコレートがきらいな人。あの時の衝撃もなかなかのものだったはずですが、その時はすんなり「そんな人もいるんだなぁ」と受け入れ、なんならその感性をおもしろいとすら感じ、より彼女と仲良くなるきっかけになったような気がします。
チョコレートの好みの差は受け入れられるのに、Gの好みの差は受け入れられない。受け入れられないどころか、Gをペットにする人に対してどこか恐怖のようなものすら覚えます。その人たちは別にわたしに何か危害を加えてきている訳ではないのに。これではGそのものに対する反応と大差ないのではと気づき、すこしかなしくなります。彼らはただ、わたしのきらいな生き物のことが好きで、わたしの知らないところで可愛がったり癒されたりしている、ただそれだけのことなのに、その何がゆるせないというのでしょう。

そもそものはじまりは「わたしはGがきらい」という、非常に個人的な好き嫌いの話だったはずです。それが、幸か不幸かわたしの周りにはGぎらいが多かったこともあり「みんなGがきらいなんだ」と、わたし個人の好き嫌いの枠を離れ、ごく一般的な常識の話へと姿を変えていったように思います。そこから更に「Gとは、みんながきらいな生き物のこと」とGそのものの価値を定義するような考え方へと変化し、ついには「Gはかつて人間を滅ぼそうとしたに違いない」と悪役説を立てるまでに至った訳です。こうして振り返ってみると、Gはただの昆虫のはずなのに、いつの間にかわたしの中で「みんながきらいな生き物」「人間を滅ぼそうとしたわるい生き物」といった、とんでもないワルモノになっていたのです。
そしてそんなGをペットにしている方々を、わたしは無意識のうちに「ワルモノを擁護する人」に等しい存在として見ていたような気がします。頭のどこかでは「そんな訳ない」と分かっています。「そんな訳ない」とはつまり、「彼らはただわたしと違ってGが好きなだけだし、そもそもGはワルモノというわたしの考え方は極端すぎる」ということです。しかしそれは長年の自分の思考の偏りを認めることと同義ですので、おそらくわたしのちっぽけなプライドが邪魔をして、「Gの好みは人それぞれ」というとてもシンプルな事実を受け入れられなかったように思われます。私が受け入れるか否かにかかわらず、「Gを生き物として対等に扱う人」も「Gをペットとして可愛がる人」も、この世にたしかに存在しているというのに。そんな変えようのない事実にいちいち目くじらを立てているより、きっと認めてしまったほうが幾分もラクです。それにもしかしたら、かつてのチョコレートぎらいの後輩とそうなれたように、G好きの人たちと仲良くなれる未来だってあるのかもしれません。それはなんだか、とてもすてきなことのように思われました。

こんなにもたくさんGという文字を見るうちにふと「G線上のアリア」という曲を思い出しました。中学生のとき授業で教わった曲で、バイオリンの一番低い弦のみで演奏することができるよう編曲されているそうです。わたしはバイオリンを演奏したことがないので憶測になりますが、もしこの曲を一弦のみで弾き慣れた方が全ての弦を使って演奏しようとしたら、多少まごつくのでしょうか。やり慣れた方法から離れるというのは、最初はやりにくさを感じるものかもしれません。
今回の思い込みもこれと似ているような気がします。「Gは全人類共通できらいなはず」という一弦だけを奏でていたわたしは、「逃がす」「ペットにする」という他の弦の存在にまごつきました。それが無くてもアリアは弾けるのだから、要らないような気さえします。しかし他の弦の存在を受け入れて、たどたどしくても音を確かめていくことを重ねれば、いつの日かまったく別の曲が弾けるのかもしれません。バイオリンがしっくりこなくなれば、リコーダーに変えてもいい。打楽器でもいいし、なんなら楽器じゃなくてもいい。音やかたちや演奏の方法にこだわりすぎず、ただそれぞれに違いがあるだけなのだと知り、逆にその違いを受け入れ楽しんでしまえば、いつか予想もつかない未来に辿り着くのかもしれない。そう思いながらわたしはあたまのなかで、馴染みのない真新しい弦をそっと爪弾くのでした。

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