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怠惰なペペロンチーノ

冬のしんと冷えた空気が好きです。
暖房の効いた部屋にいる時間がつづくとわたしは、あの冷たい空気が吸いたくなります。人工的なあたたかさでふやけた頭が、冬の空気で元に戻るような心地がするのです。そういう訳で今日もわたしは、ベランダに出て深呼吸をしていました。夕暮れ時ですが部屋のなかで感じるよりも外は明るく、建物も道路も寒さのなかどこかしんとしています。空はやわらかな青で、ところどころに薄いピンクを少し混ぜたような雲がぽかっと浮いています。そんな様子を見るともなく眺めつつわたしは、今日の晩ごはんは昼間に作ったスープにうどんでも入れようか、などとぼーっと考えていました。

しばらくそうしていると、ご近所から美味しそうな匂いがしてきました。ペペロンチーノでしょうか、加熱されたニンニク特有の香ばしい匂い。そこまでお腹は空いていないというのについつい食欲をそそられます。
ニンニクの匂いって、どうしてあんなにも魅力的なのでしょう。すごい速さで走ってきて有無を言わさず食欲を揺さぶり起こす、それくらいの腕力があるような気がします。その力は場合によってはちょっと厄介です。特に、空腹なのに用事があって食事どころではない時なんて少しムッとします。「今は勘弁してくれ〜」と、つい逃げるようにその場を離れてしまいます。

そこまで考えてふと、ふしぎに思いました。今のわたしも、状況だけ見れば同じはずです。ニンニクの匂いに不意打ちで食欲を掻き立てられ、しかしその匂いの元を食べることはかなわない。それなのに別にムッとしません。「おいしそうだなぁ、いいなぁ」と多少羨ましく思うくらいで、逃げるように部屋に戻ることもありません。同じ状況に対して何故こんなにも反応が違うのだろうかと、冷たい風を吸い込みながら思考を巡らせます。
そこまで空腹ではない、というのがひとつ大きな違いのように思われます。加えて、わたしが今自宅に居るということも大きい気がします。勝手知ったる自宅ですから、どうしても食べたければ自分で作れるという自由がひとつの安心材料になっているのかもしれません。
ではもし仮にわたしが今ペペロンチーノを作れなかったらどうだろう、と考えてみます。たとえば材料が家に無かったら? すこしムッとするかもしれません。「わざわざ買い物に出たくないのに美味しそうな匂いをさせないでくれ〜」と、羨ましさが妬ましさに変わりそうな気がします。そう考えると、ムッとするか否かの違いは、外側ではなくわたし自身にあるように思われました。

空腹を抱えているのに食事を摂る時間がない状況。時間はあれどその料理を用意できない状況。そのどちらにおいても「食べたいのに食べられない現実」にムッとしている訳ですが、冷静に考えれば別にその現実を誰かに強要されている訳ではありません。つまり少しうがった見方をすると「食べたいのに食べられない現実を変えようとしない自分自身」にムッとしていると言えるのではないだろうか、なんて思ったのです。美味しそうな匂いはあくまできっかけのひとつに過ぎず、それをきっかけに「忙しさにかまけて食事を摂る時間を確保しようとしないわたし」や「面倒だからと食べたいものを用意しようとしないわたし」の怠惰を自覚させられ、そんな怠惰な自分自身にムッとしているのではないか、と。「食べようと思えば食べられるくせになんで食べないんだよ〜」という食いしん坊な自分の声が聞こえてきそうです。
そして時に、その本質から目を逸らすばかりか、その匂いを発生させた人に対して「今それ作らないでよ〜」と心のなかで八つ当たりをする訳ですから、そう考えるとわたしという人間はなかなかにワガママです。そして何より食べることへの執念が凄まじい。我が事ながら笑ってしまいます。

そんなことを考えていたらお腹が空いてきました。寒いベランダで他人の料理を羨んでいるより、あたたかい部屋に戻りキッチンに立ったほうがずっと良さそうです。今夜ばかりは怠惰を脱して、自分のためにペペロンチーノを作ろうか。あいにく鷹の爪はないけれど、買いに出るのは面倒だからそこは七味でごまかそう。それはもはやペペロンチーノと呼べない気もするけれど、きっとまた別の美味しさがあるはず。
思いがけないニンニクの匂いによって、晩ごはんのメニューは変更されてしまいました。昼間に作ったスープがめんどくさそうにコンロの上に鎮座しています。しかしわたしは、己の底しれぬ食い意地によって新たな料理がうまれようとしている現実に片笑みつつ、スープをコンロからおろし、フライパンを火にかけ、盛大にニンニクを炒めはじめるのでした。

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