わたしの関西生活
2020年3月。緊急事態宣言が全国に発令された。
卒業式は中止。着るはずだった袴は一生着ることはないだろう。
常にマスクをして、食事の時は黙食。
風邪の症状が出れば、一発アウトみたいな、緊迫した世界だった。
今思えば、大学生の頃から思っていることだった。
「居場所を作りたい」と。
居場所に関する卒業研究をしたからかもしれないし、子ども食堂をしていたからかもしれない。
いずれにしても、「子どもの居場所を作る」ことが私の密かな夢になった。
でも、簡単に夢は叶わない。
そもそも居場所というものに対して、金銭的価値は存在しないからだ。
そう、仕事にならないのだ。
今なら、仕事とは別に活動の一貫として始めればいいものの、あの頃は仕事にしたくて仕方なかった。
私が「子どもの仕事をしたい」と思ったときに決めていることがある。
それは児童養護の仕事には就かないということだ。
どうしても子供に対して、全てをやってあげてしまいたくなる。
そんな私が就いたら、自分がパンクしてしまうのが明確だったため、絶対に就かないと決めた。
社会福祉士の資格を持っているというだけで、私は高齢者施設に就職する。
社会人1年目 介護士
大体多くの社会福祉士の就職先として、高齢者施設での生活相談員が挙げられる。
「話を聞くのも好きだし、大体やることもわかっているから良いかな」みたいな気持ちで、就職した。
就職先ではまずは介護の業務を知った方がいいとの理由で、介護士になった。
大学4年の3月には介護士初任者研修が行われ、大学の先生が知識、実技を教えてくれた。
そのときには学校みたいな感じで、同期とも仲良くなった。
4月に特別養護老人ホームに配属された。(ここからは略して特養)と呼ぶ。
要するに、介護の必要な高齢者のための生活する場なのである。
何より大変なのが、人員不足で時間に常に追われているという点である。
一人で10人の利用者を見て、食事を提供したり、排泄介助をしたりしなければならなかった。
でも、利用者の方は穏やかで、孫のように可愛がってくれた。
先輩たちも優しく、ときには厳しく教えてくれた。
毎日が穏やかで、忙しい日々だったがかけがえないの無い日々だった。
1年ちょっと介護士をしてきて、後輩も入ってきて余裕ができてきた頃、相談員への異動が発表された。
社会人2年目 相談員
発表された直後は、大抜擢されたと喜んでいた。
「これでなりたかった相談員になれる!」そう思っていた。
行き先がわからなくなった。(タイトル)
相談員になって、初めに思ったこと
本当に仕事がわからない・・・。
びっくりするくらい仕事がわからなかった。
それもそのはず。
今まではシフトで時間に合わせてやることが1〜10決められていたのに、
相談員になった瞬間、仕事をする8時間を自分で決めないといけなくなったのだ。
そもそも、何が相談員のするべき仕事なのかわからない。
しかも、相談員は自分しかいないため、同じ業務をしている人がいない。
かつ、上司に聞いても上司はケアマネジャーのため、相談員の仕事が分からないと言う。
もう頭はパニック状態。いつも緊張状態。
だから言われたままに動くしかなかった。
言われたままに動いていたら、どうなるか。
それは、仕事ができない人間の誕生である。
人に合わせて仕事をしている中で、自分を見失った。
全てのことにイエスと言っていた気がする。
「代わりにこの仕事やっておいて」
「こんなこともできないの?」
そんな声があちらこちらから聞こえる。
今までは一緒にやってくれていた介護士の先輩たちも、
色々なことを教えてくれていた看護師も、
相談員になった瞬間に、目の色を変えて攻撃してきた。
上司のミスを私がカバーしなければいけない時もあった。
カバーしなければいけないのに、カバーできないから、
またあちらこちらで声のない声が聞こえてきた。
私は「居場所のなさ」を感じるようになった。
心の奥底から、「こんなの私じゃない」という声が聞こえてくる。
その声を無視して、働き続けていたある日、
その日も上司から理不尽に怒鳴られ、送迎にでた車の中で、
涙が溢れて止まらなくなった。
「もう、私ムリだ」と確信した瞬間だった。
送迎から帰ってきた後に、トイレへ籠って決意した。
「具合悪いので帰らせてください。」と上司に伝え、
そこから職場に行くことはなかった。
新卒は3年以上働けって言われるけど、あと1年半もあると思うと長いな。
そんなことを帰りの車の中で思った。
ニート生活の誕生パート1
心のチャージは人と会うこと
仕事を辞めて、すぐに新幹線に乗り、東京へいき、みずきさん(Twitterで出会った私の友だち。)と初めましてをした。
「初めまして!私、今仕事辞めてきました。」と言った私に驚くみずきさん。
一緒に渋谷でご飯を食べ、バンクシー展に行った。
その当時私は、子どもの居場所を作りたいという漠然とした夢があった。
もちろん、卒業研究の影響なのだが。
みずきさんも当時、居場所づくりを考えていたため、意気投合した。
その後もみずきさんとは年1でご飯に行ったり、尼崎に泊まりにきてくれたりする仲になれたのは本当に嬉しい。みずきさんのポテンシャルの高さに圧倒されながらも、モチベーションが上がる。
みずきさんと別れたあと、太樹くん(北村匠海の弟)に髪を染めてもらった。
太樹くんにも仕事を辞めたことを話して、太樹くんの話も聞き、お互いに深いところまで話して、二人で励まし合った。
その後も、定期的に美容室へ行っているけど、毎回大きなエネルギーをくれる。
少し心のチャージができたくらいから、子どもに関する仕事がしたいなと思い始めた。
前職でメンタルを崩したから、もう高齢者分野はやらないっていう気持ちもあった。
よし!次に行こうと決意できた瞬間だった。
子どもに関する仕事をしたいと思っていても、保育士も教員免許もない私は、どんな仕事があるかわからなかった。
そこで、まずは会いたい人に会いに行こうと思った。
SNSで面白そうなことをやっている人に会いに行ってみた。
貧困の子どもたちを助けるNPO法人
そこは子ども食堂をしながら、子どものSOSを聞いて助ける団体だった。
全国どこでも、子どものSOSを聞いたらすぐに車で駆けつけてくれる、泊まる場所も提供してくれるところだった。
私はそこで一泊二日の合宿に参加した。
田舎の森の奥にあるログハウスに、小学生が10人ほど来ていた。
子どもたちは各地から集まり、楽しそうに遊んでいた。
合宿を通じて、子どものメンタルは環境により構成されるということがわかった。
一方で、一時的に助けられても、環境を整えなければ、根本的な解決には繋がらない。自分たちだけですべて解決しようとしないということが大事だと思った。
制度があるものは制度に頼ったり、専門家が必要な場合は専門家に頼る。
そういったことが、依存の分散にも繋がり、その子自身を助けることにつながる。個人でやっているフリースクール
企業でやっているフリースクールではなく、個人でやっているフリースクールの見学に行った。
フリースクールという居場所は私が研究していた第三の居場所(学校でも家でもない居場所)に値する。
フリースクールは主に学校へ行けなくなった子どもたちが来る。自分という殻から、少し一歩踏み出した先にあるのがフリースクールだ。そこで、どんな大人と出会い、どんな経験をするかはその子にとって途轍もなく大きなことである。(まるで蛹から蝶になるまでのようなくらい大きい)
そんなフリースクールを見学し、運営者に「一緒に運営しよう!」と誘われた。最初は私も乗り気だった。
しかし、2度目の見学で、セクハラまがいなのことをされたことで信用できなくなり、お断りした。信用できる大人に出会うことの難しさをそこで知った。イエナプランってなんぞや?NPO
最後に見学に行ったのが、その後働くことになるNPO法人である。
見学に行き、一番子どもたちが輝いていた。
子どもたち一人一人が好きなことをして、楽しい感じが伝わってきた。
シンプルにここで学びたいなと思った。
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ただ学びたいのと働きたい違う。
地元を離れて遠くまで来て、働きたいわけでもなかった。
たまたま見学した先の方、東さんが「そんな遠くから来るなら、うちに泊まる?」と言ってくれたことで私の生活は一変する。
東さんの住む家は社長である西村さんと大学事務のあっちゃんの3人でシェアハウスをしていた。
翌日、東さんは予定があるということで、西村さんと散歩に出かけた。
そこでたくさんの面白いことをしている人たちと出会い、私もここで暮らしてみたいと思うようになった。
「また行きますね」と言った私に、
「いつ来るの?」と聞かれてしまい、1ヶ月後にもう一度、関西に飛び立った。
私の居場所はここしかない
今度は1週間滞在することになった。
学童が始まるまでの時間は、京都で神社を見たり、たこ焼き食べたり関西を満喫した。
滞在初日に西村さんから
「こないだより積極的じゃないよね? 積極的に行かないとダメだよ」と言われた。
そこで私は「あ、自分を変えにきたんだった」と気がついた。
滞在二日目、西村さんから「うちで働かないか」と誘われた。
もうここしかない! と思い、即答した。
住む場所もない私に、
西村さんは「シェアハウスを建築しているからそこに住んだらいい」と言った。
こうして、家と職場をゲットした。
おらさ、関西さ行くだ!
特に必要な荷物もなかったので、キャリーバッグ一つで関西へ上陸した。
仕事とプライベートが一緒はキツイ
シェアハウスができるまで、社長の西村さん、上司の東さん、あっちゃんの住んでいるシェアハウスに居候生活が始まった。
私はどちらかというと、オンオフをはっきりさせたいタイプ。
初めての職場であり、毎日ど緊張なのに、家に帰ってからも会社の人がいる。
「これしたら悪いかな?」
「お風呂先に入っていいかな?」
って勝手に気苦労していた。
しかも、知らない人たちが毎日毎日入れ替わりでくるのである。
今日は大学生、今日は社長の友人、今日は外国人留学生。
深夜まで飲み会が行われ、自分の部屋にいても騒音で寝られない。
その当時、私が色々な人たちに言われたのが
「りほちゃんって普通の暮らしができて贅沢だよね」
社長や東さんのおかげでできてきた仲間たちに言われた言葉だ。
その人たちは何らかの生きづらさを抱えて、痛みを慰め合ってきたそうだ。
普段、マイノリティである彼らからしたら、ある程度生活ができている私はマジョリティだ。
しかし、マイノリティの人たちが多いところでは私はマイノリティだ。
どんどん自分がわからなくなっていく。
「本当にここにいたい?」
「でも、私は変わりたい。このままじゃダメだ。」
本当の私はどこにいるのだろう。
そんな生活にも慣れ始めた頃、
西村さんから「明日から他の人が1ヶ月ここに住むから、違うところに行って」
この一言で、私は二宮さん一家で居候することになる。
普通って多分こういうこと
二宮さん一家は5人家族で、とーちゃん、かーちゃん、りん(6)、あや(3)
、けい(1)。プラス居候で月に一回泊まりに来るさやがいた。
私は訳もわからず、西村さんから「このお家ならいけそう」と言われて、
連絡して住むことになる。
すぐにかーちゃんから、「好きにしていいよ。」と言われ、寝る時以外は家族同然のように過ごさせてもらった。
とーちゃんは無口ながら、アドバイスが欲しい時はしっかり意見をくれた。
子どもたちは本当のお姉ちゃんかのように接してくれた。
関西の人はストレートに伝えて来ることが多く、かーちゃんも飾らずありのままで伝えてくれた。
はじめて、私のことを考えてくれる人たちに出会った。
またただのおせっかいおじいちゃんがご飯を作ってくれることも、私の糧となった。
この生活中に私は熱を出し、初めて仕事を休んだ。
かーちゃんは他人の私にうどんを作ってくれ、子どもたちもフルーツを切って運んでくれたり、りん特製の玉子焼きを作ってくれた。
とーちゃんは何も言ってこないながらに、必要なものをドアの前に置いといてくれた。
多分、この家族には甘えていいんだ。そう思って、体調を崩したのかもしれない。
1ヶ月経っても、私のシェアハウスはなかなか完成されなかった。
そのことかーちゃんに伝えると、「りほちゃんは人のことを考えたり、気疲れしやすいから一人暮らししたほうがいいと思うよ。」とはじめてアドバイスされた。
そして、私は居候をやめた。
あれ?言ってたこととちゃうやないか
今度は仕事の話をしようと思う。
私は学童保育をすることになる。しかし、母体は障害福祉のNPO法人であった。
働き始めて1ヶ月経った頃、学童保育だけでは赤字だからヘルパー、就労支援 B型、給食作り、送迎、事務、グループホームの夕食作りをやるように言われる。
もちろん、できなければ減給、残業代なし。
あれれ?私は何をしにきたのだろう。
当時の経営を振り返ってみればわかることだった。
まず私がこの学童を見つけたのが、SNSでの職員募集についてのつぶやきだった。
見学に行く時は職員を募集しているから見学に行けるだろうと思って、メール送った。
そう、単純に人手不足でオールマイティにできる人探していたのだ。
そこにたまたま私がマッチしたのだった。
もう一つのあれれ?はイエナプランをやっていなかったのだ。
学童としてイエナプランをしているのではなく、東さんがイエナプランを学んでいて、
それを取り入れたいと思っているだけだった。
ただの民間駆け出し学童だった。
当時は知らなかったが、学童を最初に運営していた後藤さん、その部下が東さんだったため、イエナプランとは全く無関係だったそうだ。
後藤さんが辞めたことで私が入ることになったのだ。
目の前の人幸せにしたい
どんなにたくさんの事業をやろうとも、目の前の人の幸せを願わずにはいられなかった。
学童をしているときは子どもを幸せすることを考えた。子ども人権について考え、子どもたち一人一人に合わせたことをたくさん考えた。そして子どもからたくさんのことを教えてもらった。
子どもから信頼を得るためには一緒に遊ぶこと、たくさん話を聞くこと。
障害のある方と関わっている時は対人として関わらせてもらった。いっぱい失敗した姿や情けない姿も見せた。人生ではじめて行った動物園は利用者さんとだ。
忙しいとは心が死ぬこと
基本、8時半〜19時半の10時間労働で、週一の休日。繁忙期は15時間くらい平均で働いていた。
すると、段々壊れていくのである。
心が壊れる音がする。
コロナが流行し、周りでもコロナが増えた頃、私もコロナになった。
一人で1週間過ごしていると孤独感に襲われる。
突如、吐き気に襲われるが吐けず食べられない日が続いた。
そして、仕事を休みがちなった。
病院に行っても吐き気はコロナの後遺症ではないと言われ、何も診断が付かなかった。
ただでさえ人手不足の職場で休みがちなると、
上司の東さんや社長の西村さんから、
心配の声から催促に変わっていった。
この日は絶対に休まないで
と何日も指定されるたびにプレッシャーになり、
夜も眠れず吐きながら泣き続けた。
そう、段々気持ちのコントロールと体のバランスを崩していった。
仕事を休みがちになることで、
欠勤となり給料が減った。
1400円の給料では水道代すら払えなかった。
ここで、心がポキッと折れた。
一人で生活すらできないことに生きていく気力を失った。
特別ではなく平等であってほしい。
仕事を休みがちな私に西村さんが、ご飯に誘ってくれた。
どんなことが辛いのかと聞かれ、
「たくさん改善したいのに、できないことが悔しい。
上司の東さんが無理難題を言ってきて、できずに誰かを傷つけることが嫌だ。」と言った。
西村さんは共感しながら話を聞いてくれた。
後日、仕事を辞めたいことを伝えると、
「改善したいって言ってたのに何もしないまま他の人にしんどい思いをさせるのはずるい。自分もしんどい思いしたのに、そのしんどさを他の人にも味わせるのか!」と言われた。
あの時共感してくれた西村さんはもうどこにもいなかった。
そして、わたしの目の前で東さん一緒にランチへ行った。
その時に私の気持ちより東さんのことの方が特別なんだなと思った瞬間だった。
私は西村さんには社長という立場であるということもあり、誰にでも平等でいてほしかた。
この話を仲間にしても、
「西村さんは疲れているんだね。」
「西村さんと東さんは一緒に住んでいるし、特別な絆があるんだよ。」と誰も私の見方をしてくてる人がいなかったことに傷ついた。
後から振り返ると、西村さんを中心にできている世界であった。
この仲間たちも西村さんが作ったシェアハウスに住んでいたり、西村さんのお金で暮らしている人たちだった。
西村さんがいなければ、この人たちは生活できないのである。
楽園だと思っていた場所は囲い込まれた孤島の地だった。
救いながら救われた
そんなこんなで、私自身も周りを見れず自分のことで精一杯になっていた。
私にそれではダメだよというように、いきなりピーンポーンと家のチャイムが鳴った。
そこには同期のゆきちゃんが立ってきた。
「メンタルがやばいから泊まってもいい?」
私は特に何も思わず、「いいよ」と即答した。
ゆきちゃんは仕事熱心でいつも気にかけてくれる人だった。
私がコロナになった時もご飯を買ってきてくれたり、心配してくれた。
時々、人目を忍んで泣いていることがあった。私は特に触れず何もしないことで彼女をはげました。
私の家にいながらゆきちゃんは静かに壊れていった。
まず仕事に行けなくなった。私も仕事に行けていなかったので、「同じだね」と言い合っていた。
ゆきちゃんは私よりも深刻だった。
段々、ゆきちゃんはお風呂に入れなくなり、ご飯を食べられなくなり、
自分の布団があるのに私の布団に潜り込み、抱きしめていないと眠れなくなった。
あの気にかけてくれるゆきちゃんはいなくなった。
子どものように、私対して「眠れない」「嫌だ」と駄々を捏ねていた。
正気を失ったゆきちゃんを見て、私もこの生活が続くことにしんどさを抱えていた。
でも、私がゆきちゃんのことを拒絶したら、ゆきちゃんは死んじゃうんだろうなと思って、私はできなかった。
その時は突然、やってきた。
私が仕事から帰るとゆきちゃんが荷物をまとめて消えた。
この1ヶ月間ゆきちゃんが外から出ることはなかったため、最悪のシナリオが思い浮かんだ。
私はこのことを知っている後藤さんに連絡し、一緒に彼女のアパートへ行った。
結果から言うとゆきちゃんはまだ生きていた。
救急車に乗ると正気を取り戻し、病院でも普段と飾らずに話していた。
医師からは、「何もないので入院はできません。死ぬのが怖くなり道連れにすることがあるので、その場合は救急車だけではなく、警察を呼んでください。」と言われた。
私はここで死ぬのかもしれないと死を意識した。
死を意識すると生きたくなるから不思議だ。
私は後藤さんと話、市役所に相談することにした。
相談される立場から相談する立場に変わった瞬間だった。
特に私ついて話した訳でもないが、同職種だと見抜いていたので、
本当にすごかった。
結果的に私とゆきちゃんを離す必要があったが、ゆきちゃんの意思を無視することはできないので、ゆきちゃんが自分から離れる必要があるとのことだった。
二宮さん一家にも協力してもらい、私とゆきちゃんは離れた。
私も正気を失いかけていたので、だいぶ救われた。
この期間に東さん、西村さんをはじめ、たくさんの人に気にかけてもらったので、
ゆきちゃんのおかげで関係を修復できた。
全ての旅を終えて
朝、小鳥の囀りで目が覚める。
「あ、私は帰ってきたんだった」
関西にいた時は電車の騒音で目が覚めていた。
騒がしさから解放され、ゆったりと時間が流れる。
全てが終わったような気がしたけど、緩やかにつながっている。
私は今も学童の仕事をしているし、関西にも遊びに行く。
全ての経験が無駄ではないことを教えてくれた。
子どもの幸せを作る、これはいまも変わらない。
一年前の私へ
あれから一年経ち、久しぶりに私は関西へ飛ぶ。
久しぶりに居候生活を体験し、子どもたちに会って思った事は
私の選択は間違えではなかったということだ。
全ての経験があり、今がある。
無駄な経験なんて一つもないのだ。
今は学童を主として、運営する立場になり、
西村さんや東さんの気持ちも少し分かるようになってきた。
子どもを第一に考えることは、ここで教わったこと。
これは今も大切にしている。
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