リハビリつれづれ 9

「おはようございますー!」
 本日も最初の患者さんは右膝の人工関節置換術をされた山口さんである。今日も山口さんと同室の田中さんと一緒に女子会をしながらリハビリ室に来室された。
「先生、おはようございます。今日はね、リハビリ室に一人で言っていいって看護師さんに言われたんだけど、ちょっと不安だったからお隣さんと一緒に来ちゃった。今日もよろしくお願いします。」
 歩くことが不安であればおしゃべりする余裕などないと思うのだが、おしゃべりしながら歩けるようになったと前向きに捉えたいと思う。
「山口さん、おはようございます。今日は体調いかがですか?」
「バッチグーよ。右膝の痛みはかわらずだけどね。10段階だと2とか3くらい。」
 10段階で3というのは、NRS(Numerical Rating Scale)という、ゼロを全く痛みがない、10を死にたいほど耐えられない痛みだと仮定して疼痛の程度を聞くという評価の一つである。山口さんは私が以前このように痛みの程度を尋ねたのを覚えていて、痛みを伝える時にはこのように分かりやすく答えてくださる。痛みというものは客観的にみえにくいものであり、それぞれ感じ方が違うものであるからAさんの10分の8がBさんの10分の8と同じというふうに捉えることができない。つまり痛みというものは評価をするのが難しい項目なのである。そして、この質問をすると患者さんから言われるのは、”死にたいほど痛いってのは、どのくらい痛いことをいうんだ”ということである。それを私が伝えることができたらこの評価の信頼性は上がるだろう。
「ありがとうございます。バッチグーということなので、今日は天気がいいのでお外に出てみようかなと思います。」
「えー、ほんと?脱走していいの?」
「脱走していいですよ。ただ、私も一緒に行きますけどね。」
「あら嬉しい。若いお兄さんとデートできるなんて。」
「ちなみにデートコースは病院の外周一周です。少し膝の曲げ伸ばしをしてから行きましょうか。」
「よろしくお願いします。」
 ベッド上でマッサージや膝関節の運動を行ってから、私は山口さんを連れて病院入口へと向かう。今日の山口さんの歩きは昨日の歩行練習前にみられたようなロボットのようなぎこちなさはみられずスムーズに歩行できている。ちなみに山口さんにとっては入院以来の外出である。病院というところは基本的に入院したら安全管理の面で病院内から出ることはできない。病院によっては屋上に患者さんが出ることができて、植物鑑賞ができる歩行路がある病院もあるが、我が緑野総合病院は安全管理の面で屋上は入ることができない。この外の空気を味わえないというのは大きなストレスであると考える。もちろん患者さんは体のどこかが病気となっているため、その病気に対して感じるストレスというものが当然生じている。そしてそれ以外にも、家族に会えない、自宅環境と違って落ち着かない、空調で管理された部屋で自然を感じることが出来ないなど環境要因に感じる精神的ストレスも大きいと思う。このようなストレスはご飯が食べられない、お通じが出ない、寝られないなどさまざまな弊害を生じさせる。屋外歩行練習というのは、屋内歩行練習よりもより実践的な歩行という意味合いがあるが、それ以外の環境要因によるストレス軽減効果もあると思う。
「ほんと今日いい天気ね。日差しがあったかいわ。」
「そうですね。ここ左に曲がります。あ、ここ段差あるので気を付けてください。」
 屋内のフローリングを歩行するときとは違い、屋外というのはいくらコンクリートで整備されているといっても不整地な部分はたくさんある。例えば、歩道でも車の出入りする部分は斜めになっていたり、車道の端を歩くときには側溝部分に水が流れるように斜めになっている。体が元気な時には気づかないが、歩行能力が低下している人にとってはこのようなところは案外歩きにくいところである。また、病院の中と違って屋外というのは周りの人が患者さんに対して配慮してくれるような環境ではない。中にはスマートフォンに夢中になって目の前を見ずに歩いている人もいるくらいなのであるから、いくら足が悪くてもこちらが配慮しなければならないことがあるのである。
 山口さんは久しぶりの屋外歩行であるが、大きくふらつくことなく歩くことができている。
「今日は調子いい感じかも。だんだん痛くなくなってきた。やっぱり杖使ってるっていうのもあるのかしら?」
「あると思いますよ。杖をつくことで支える面が増えるので安心して歩けるんだと思います。」
「そうなのね。いつのまにか杖使うのも慣れちゃったわ。最初は杖の持つ方も分からなかったのに。痛い方の反対側の手で持つっていうのはリハビリではじめて知ったわ。」
「そうですよね。同じ方で持つと歩く時の支える面が少なくなっちゃうんです。あとは重心の位置も大きく動いてしまうので歩くときのバランスが悪くなります。」
「へえ、そうなの。お外出てみて気づいたけど、結構杖使っている人っていらっしゃるのね。前の男性の方とかも。杖使っている人みると応援したくなっちゃうわ。」
 普段何気ない日常生活でも、少し視点を広げてみると、杖を使っていたり、車いすを利用していたり、装具を履いて歩いている人だったりというような、体が不自由な方をみかけることがある。私自身、理学療法士の勉強を始めてから普段の日常の中に体が不自由な方を見かける機会が多くなったように感じる。山口さんのこの発言も、ご自分が杖を使うということをきっかけにして杖を使っている人が目に入りやすくなったのであろう。人間は自分の知っている範囲のことでしか世の中をみれず、かつ自分の都合のいいように理解しているものなのである。
 我々理学療法士は病を抱えた患者さんを対象とするが、その患者さんの病は経験することができない。そのため、当たり前のことであるが患者さんの病気のことや患者さん自身のことを知るということは非常に大切なことである。また、同じご病気でもその人によって抱えている問題は異なるため、患者さんそれぞれに対して介入することが大切である。
「あら、ここ随分綺麗に菜の花が咲いてるのね。」
「そうなんです。ボランティアの方々がいろいろお花を植えてくださってるんです。」
「こんな自然のお花をみるのも何週間振りかしら。綺麗ねー。そうそう、横浜に菜の花がきれいに咲いてるところあるの知ってる?川瀬町の駅のところ。」
「知らないです。綺麗なんですか?」
「すごいわよ。一面まっ黄色。今度デートで行ってきなよ。」
「分かりました。行ってきます。」
 そんな話をしていると病院の入口が見えてきた。山口さんの歩き方は少し右足をかばうような歩き方になっている。
「今日はこれでリハビリ室に戻っておしまいにしようと思います。痛みはどうですか?」
「さっきよりはちょっと痛くなってきたかな。10段階だと3くらい。」
「ありがとうございます。外周一周でだいたい400mなのでそれくらいは少し痛みあるけれども歩けるかなという感じですかね。」
「そんなに歩けるようになったのね。よかった。あっ、先生聞いてもいい?よく一日一万歩歩きなさいとかっていうじゃない?実際どのくらい歩いたらいいの?」
「一応国が定める基準では、”男性9200歩、女性は8300歩を目標にして”と書いてあります※20。」
「そうなんだ。私、8300歩なんて痛くないときでも歩いてなかったわよ。」
「そうですよね。この目標を達成できている人というのは少ないんじゃないかなと思います。」
「だよね。ちなみにそれって元気な人の話でしょ?退院するときには私はどれくらいを目標にして歩けばいいの?」
「今日は屋外を400m歩いて少し痛みが出るくらいかなという様子なので、これ以上痛みの増悪がないのであればはじめは400mくらいを目安にして歩くようにしていけばいいと思います。はじめは様子見で徐々に距離を伸ばしてください。」
「分かりました。時間でいうとどれくらい?」
「そうですね、今計って7分半くらいなのでそれくらいを目安にするといいと思います。もし歩数で考えるなら、7、800歩くらいかなと思います。ちなみに入院する前は歩数測ったりしてましたか?」
「そんなに歩けなかったから測ったりなんてしてなかったわよ。測った方がいいの?」
「別に測った方がいいというわけではないですが、一つの目安として記録するというのはモチベーションに繋がると思います。今はスマートフォンで歩数が分かる時代ですから、それをみながら歩いていただくといつの間にかこんなに歩けているんだと実感できると思います。」
「そうね、便利な世の中ね。」
「そうですよね。例えば、退院後の歩行目標として800歩を基準として少しずつ伸ばしていくという方法もいいと思います。ただ、山口さんは左膝も変形してると言われていて、ときどき痛みもあるということですから、左膝のことも気にかけながら歩くようにしてください。右のお膝が全然痛くなくなったら杖を持つ手を右手に変えて左膝を守るということもありだと思います。」
「分かりました。少しずつね。反対側も手術するのはいやだから無理はしないわ。」
 病院入口の自動ドアを抜けると、病院の重くこもったような空気が体にまとわりついた。病院では多くの方が先生の診察を待って座っている。もちろん皆が病院に来たくてその場所で座っているわけではないだろう。病院という施設は世の中にある施設の中でも人々が暗い顔をしている施設の一つであると思う。そんな場所であるからこそ、私は目の前の患者さんを笑顔にすることは価値があると思っている。
 リハビリ室に戻り、山口さんの体調を確認してから、本日のリハビリは終了とした。

※20 身体活動・運動|厚生労働省 (mhlw.go.jp). https://www.mhlw.go.jp/www1/topics/kenko21_11/b2.html#A23 参考

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?