コレクションが私を生かしてくれているという逆説ー「くだらない」ことをここまで力説できる、私という「くだらない」存在の証明

「くだらないものはくだらない」

確かにその通りである。しかし、もし仮にそのくだらないものに愛おしさを見いだした場合、そのくだらなさは、限りなく愛おしいものへと生まれ変わる可能性を秘めている。なぜならば、その愛おしさは、その本人にしか分からないからだ。それが愛おしい理由は説明が難しい。何より、理由を説明できたとしても、その意味を共有されず、全く共感に繋がらない。

私は、そういうくだらなさに価値を見いだしている。世間的にはくだらないものに心惹かれる。私のコレクションは、そのような感性に基づいて蒐集されたものだ。だから、私のコレクションが、共感を生まないのは間違いない。それならば、金銭的価値があるのかというと、それも一切ない。いわゆる鑑定団に出したとしても、二束三文の値段しかつかないだろう。おそらく、買い手もいるはずがないだろう。唯一、ブックオフが「ゴミ」として引き取ってくれるだけだろう。

そういう意味では、私だけが、これらの「くだらない」「金銭的価値のない」コレクションに意味を与えることができる存在なのだ。逆に言えば、私のコレクションは、私がとりあえず健康に生きているからこそ、生命を与えられているのだ。もし仮に私がこの社会から消滅してしまったら、これらコレクションも死んでしまうのだ。

確かに、これらのコレクションを作っているのは、私自身だ。私の存在があってはじめて、これらのコレクションは意味を保持し続けることができる。しかし、逆に言えば、これらのコレクションこそが、私という存在を、社会の中に規定してくれていると言える。現在の私にとっては、私という存在は、これらのコレクションを維持すること以外、価値がないからだ。

「くだらないものはくだらない」

確かにその通りだ。だから、その「くだらないもの」に価値を与え続けるために、私は個体としての生命活動を、化学反応を続けることを決意している。私という生命は、自分が作ったはずのコレクションによって生かされているのである。かなり「くだらない」理由ではあるが、私のような「取るに足らない」生命体には、ちょうどいい口実ではある。

今のところは、それこそが、私がぎりぎり社会と繋がりを保ち続ける、唯一の理由であると断言してしまっていい。私はかなり移り気なので、この先どうするかは断言できないが、私はこれらの「くだらない」コレクションと共に生きていく。こんな「くだらない」こと、力強く宣言しても、本当に無意味だけど。

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