そんな勝手にうっとりされても困りますよ、恍惚のあなた
最近ちょっと認知症に関わる仕事をしているので、関連資料を読み漁っています。
専門的なもの以外で読んだひとつが、「恍惚の人」
有吉佐和子の小説です。
認知症というコトバがまだなく、耄碌(もうろく)と呼ばれていた、1972年の出版だからおよそ50年前。
徘徊やおもらしや異常行動がリアルに描かれていてぐいぐい引き付けられる。
その時代もうすでに高齢化の兆しがあったのかどうかは知らないけれど、198万部も売れたというから、多くの家庭で身近で、かつ、いつか訪れるための覚悟、という点からかなり関心は高かったんだろうな、と想像します。
「恍惚の人」は、耄碌した義父の世話を知る嫁の話です。血のつながっていない嫁だけが義父に寄り添い介護し、振り回されます。
夫である実の息子はほとんど何もしない。
そんな夫に、こんなセリフがあります。
まるで他人事のつぶやきです。自分は一切の関わりから逃れ、妻(嫁)に任せてしまう。
50年前はこれが当たり前だったんでしょうかね。
当時の(専業)主婦たちは、私と一緒、という共感の思いで読んでいたんでしょうね。
でも、この夫と同じ立場にある<わたし>としては、うん、これは本音だな、と小さく呟いてしまうことをお許しください。
耄碌した父は、将来の自分の姿でもある。見たくないと目を背けてしまうのも理解できてしまいます。
耄碌、ボケ、痴呆、そして認知症のことを、、どうして「恍惚」なんだろうと不思議だった。
でも辞書を開いてみると「恍惚」には、<心を奪われてうっとりするさま>なんていう意味もある。
客観的にみると、ボケ=認知障害は、辛く苦しく孤独で自身の喪失、という面があって、なりたくないぞ!となるけれど、意外と本人は自覚もなく、うっとりなのかもしれません。
ボケているという自覚も意識もなければ自由気ままで、子どものように我儘言っても許されて、それはまさに<恍惚の人>ってこと?
高校生の孫のセリフに、こんなのがありました。
祖父が実の息子ではなく嫁(母親)にしかお願いをしない様子を見て言うのです。
高齢化長寿化に比例して認知症は増えます(増えるというか分母そのものが増えるから)
高齢化は世話をする介護をする絶対数も比例して増えざるを得ない、という問題です。
どうするニッポン。
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