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愛と敬意に満ちたアフタートーク〜ラビア・ムルエ「表象なんかこわくない」

タイミングというものは残酷です。
別々に接していればその違いに深く思うこともなかったのでしょうが、そのあまりの近さにどうしたって比べてみたくもなる、というお話を。

9月の終わりと10月のはじめ、2週続けての週末に、似たような催しに参加しました。

まず最初が、地元で開かれたサウンドパフォーマンスを見たあとのアフタートーク。こちらをAとします。

そして翌週は、愛知県内4箇所で開かれている国際芸術祭のパフォーミングアーツを見たあとのアフタートーク。こちらをBとします。

Aのアーチストは日本人とスイス人のコンビで、Bのアーチストはレバノン人のため、どちらのトークの場には司会進行とともに通訳がいます。


結論。
Aのアフタートークは正直ひどかった。アーチストにはまったく問題はないのですが、司会進行と通訳がかなりの重症。
事前打ち合わせをしていないであろうことが丸わかりの進行と段取りで、コンセプトや意図の問いかけや受け止めもアーチストに申し訳ないほど断片的で支離滅裂。
通訳もまったく役目を果たさず、そのほとんどを、コンビである日本人アーチストが代わって行うというごめんなさい状態。
あまりのひどさに途中退場してしまいました。

で、その、ひどかったなぁの思い、は、その後スタバでのコーヒー一杯分までの余韻にして、飲み終えたカップとともにダストボックスにさようならしました。
そこで終わり、のつもりでした。


ところが、そのちょうど一週間後、Bのアフタートークに出会いました。

Bとは、国際芸術祭あいち2022での、ラビア・ムルエのパフォーミングアーツ「表象なんかこわくない」

舞台装置も表現もシンプルで、ほとんどが言葉だけのパフォーミングアーツなんですが、言葉だけであるからこそ、試されるのは私たち自らの想像の力です。

目で見て耳で聞いた表現は、もちろん脳内へとそのまま伝わります。
ただそれらは、血流にのって体内を駆け巡ったあとのことなのかは疑問です。
テーマのひとつである<痛み>まで感じ取れたかどうかは疑問です。
単に言葉として理解したつもりになっただけかもしれません。

それはやはり、自分の想像する力の弱さに加え、語られる自傷系アートの歴史を知らない、アラブ世界やレバノンという国の事情や宗教や個人の置かれた状況を知らないという無知や教養のなさによるところが大きいとも言えます。

ところがですね、
そんな欠けたピースをあとから埋めてくれたのが、アフタートークでした。


進行である相馬千秋さんは、多くの観客が抱いているであろう疑問や関心を代弁してくれて、さすがという感じ。

そしてなんと言っても通訳の山田カイルさん。自らも演劇に関わっているということで、言葉のまとめ方伝え方の適切で心地よいこと。まるでアーチストがのり移ったかのような身体性豊かな通訳は、こちらもひとつのアートのようで見惚れてしまいました。


アフタートークで浮かび上がってくる、
ああ、そうか。
そういうことか。
だからなのか。
によって、ぴたぱちぱちんと欠けたピースが次々と隙間なく嵌っていきます。ああ心地よい。
パフォーミングアートとアフタートークが一体化した2時間弱がそこにありました。

というように、
たまたま2週連続で異なるアフタートークを体験したことで際立ってしまったその差。
この2つには、ローカル、予算など条件の違いは当然あります。それは仕方ありません。
でも、連続しての体験だったから気づいたことがあります。
Aの関係者に圧倒的に欠けていたものがあったような気がします。


当たり前すぎるからこそ難しいそれ、

「愛」と「敬意」と「丁寧さ」の濃度と密度の差。


もちろんAも、そのアーチストを招聘し発表の場を設けたわけだから、強い動機や愛と敬意はあったはずです。理解もしているはずです。
でもやはり、それぞれの深さには、大きな差があるように感じてしまいました。
小さなこともないがしろにしない丁寧さにも差を感じてしまったのです。


こういうのってアートの世界だけじゃない気がします。
私が携わっている仕事にもあり得ることで、担当する企業や商品や人物に対する姿勢にも、愛と敬意と丁寧さの濃度が色濃く出てきてしまうから、要注意です。
愛と敬意と丁寧さを込めているかのような見せかけは、意外と見抜かれてしまうのだ。あぶないあぶない。


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