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声に出して読めない、オジサンたち戦慄のネーミング

クドカン(宮藤官九郎)さんのエッセイ(の一部)にこんなのがあります。

そこは番組の企画会議。

中心メンバーである4,50代のオジサンたちが、若い頃に接したアニメやヒーローの名を次々とあげていきます。それらをホワイトボードに書き出していく役目を担っているのは、20代のAD。

ところが、ADは、耳で聞いたそれらを正確に書くことができません。


例えば
「ちばてつや」を「千葉てつや」
「あしたのジョー」を「明日のジョー」
「ブルース・リー」を「ブルー・スリー」

それを見て、オジサンたちは口々に言うのです。
「いやはや、最近のAD たちは無知で困るよ〜(ワッハッハ)」

と、ここで、いや待てよ。と、クドカンは思う。
実際に番組を見るのは20代が中心で、まさにこの若いADさんの世代じゃないか。
もしかしてズレているのは我々の方ではないのか。この会議室でこそ、1対10ぐらいで優勢だけど、視聴者の大半が知らなかったとしたら番組として成立しない。

そう気づいたクドカンは戦慄を覚える、というエッセイです。


よくあるこの話、もしも、オジサンと若者の状況が逆転したらどうなるんだろう。
想像してみましょう。


オジサンであるあなたが、10代から20代が中心の【CMタイアップ曲何がいい?会議】に、ひとり放り込まれてしまった場面を。

さあ、若い世代から次々とアーチスト名、バンド名が上がってきます。
そのひとつひとつをオジサンであるあなたが、ホワイトボードに記入していきます。
はたしてオジサンたちよ、耳で聞いたそれを、正確に記入できるのか。

いざ、戦慄の会議がはじまる。

ハイ、いきなり出ました。

『夜遊び』
と書くと、
あの緊急事態宣言下に銀座や麻布方面の夜に駆けて駆けて駆けまくっている、懲りないオジサンたちの夜のクラブ活動のようで、反省しなさい!


『夜しか』
え、また夜?
もしかして<よる>は夜じゃなくて、寄る?そんなおもしろいパーティがあったら、こりゃもう寄るしかない、ってこと?


『ずっと真夜中でいいのに。』
ああ、やっと正しく書けました。でもオジサンは当然首を傾げます。
「あれ?今アーチスト名をあげてるんですよねぇ、夜遊びの話じゃないですよね」
にしても、アーチスト名か曲名かどっちなんだ問題の副反応は、オジサンには劇薬です。


『すとぷり』
ひとまずひらがなで書いては見たものの、これでいいいのか?
オジサンは、アナグラムでストリップを思い浮かべるのだ。


『二重』?『二十』?
なるほど、二重跳びのにじゅうかぁと、あの踊りを見て納得したそこのオジサン、ネーミングはそんな簡単じゃないようです。しかも大文字小文字の区別がこれまた難易度レベルMAX。


『キング…』
‥‥?え、最後なんて言いました?
あきらかにコングじゃないしダムでもない。キングのあと消えいるような声でなにか聞こえたけれど…それは、ブー?フー?ウー?ヌー?


『美麗』
これは危険なアーチスト名です。下手に知っているふりして英文字で書くと、最後の「t」を「i」にしてしまいます。なんとかカタカナでミレイと逃げ切ったとしても、そこに懺悔の値打ちもありません。


『ストーンズ』
ようやくオジサンが知っている名前が出てきました。
喜び勇んでカタカナで書いて、
「いいですね〜どの曲使います?ジャンピングジャックフラッシュ?ブラウンシュガー?」などと浮かれて発言してしまったら、会議の空気は固まり、あっという間に苔が生えてきます。
しかし全国でどれだけの人間が無防備に『シックスストーンズ』と呼んでしまっているのか。罪作りな名前。


『あの』
はい、なんですか?
あの〜、じゃなくて、あの?
え、それは呼びかけ?あのが名前?
あの〜、もう一回お願いします。



さあ、戦慄の会議が終わりました。
もしも自分だったらと、ぞっとしましたね。

今や、事前の検索なしで、バンド名アーチスト名を口にするのは、真夜中の廃墟を突き進むのに似た勇気と、いきなり飛び出してきたモンスターをスルーできる能天気さが必要で、自意識の高い小心者にはハードルが高いです。


オジサンたちよ、ここに強く刻むのだ。
「千葉てつや」「明日のジョー」「ブルー・スリー」を笑ってる場合じゃありません。
笑っていられるのは、今、今だけあなたが、たまたま、たまたま多勢側にいるからだけなのです。

相手が多数なのに対してこっちが少数だと勝ち目がない<多勢に無勢>。

多勢側の構成要素としては、年齢・性別・権力・地位・忖度・キャリア・お仲間身内意識などなどがあります。
ただでさえ厄介なこれら要素は、多勢側が手にすると、もうそれは一気に最強兵器に。
多くの場合、悪意はないとか、派閥の指示だったとか、適切に対処するとか厚顔無恥な発言をされますが、存在自体が最強兵器ですから、無勢は沈黙せざるを得ません。
その沈黙を納得、了承、同意、服従であると多勢はみなし、場の支配へとつなげていきます。


ところがですね、最近多くの人が気づいています。
これまで多勢であったものが、時代や世界のなかでは実は無勢、であるということに。
気づいていなかったのは、多勢のなかの人たちだけ、という皮肉な現実。

無勢なんかのこと気にすることない、どうせ無勢だ黙らせておけ、俺たち多勢が物事を決めるんだという誤った認識が支配するなか、気づくといつのまにか取り残されていた、という憐れな現実。

これまでの多勢は、声をあげてこなかったあげられなかった大きな大きな無勢の中の、小さな多勢に過ぎなかったのです。

多勢の論理は、小川を流れる木の葉のように簡単に逆転をしてしまいます。
風が吹いたり、誰かが手を突っ込んだり、小さな石をいくつかを投げ入れたりするだけで、簡単に逆転をしてしまいます。

「千葉てつや」「明日のジョー」「ブルー・スリー」を笑う者は、
置かれた立場が変わると、
「夜遊び」「二重」「美麗」で笑われる側にくるっと回ってしまうことに気づかなくてはいけません、と、自戒を込めて。

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